ワイルドサイドへの執着

童子の時は語ることも童子のごとく、思ふことも童子の如く、論ずることも童子の如くなりしが、人と成りては童子のことを棄てたり

『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章』を三池崇史監督作品として観る

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 に二~三本ペースで公開される三池崇史の映画を足しげくチェックするのは、言うまでもなく映画好きの常識である。その内の一本として8月4日に公開されたのが『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章』だが、これも過去の三池作品と同じように、「三池印」とも言うべき作家性が含まれている。

 

「日本で一番忙しい映画監督」とここ10年以上呼ばれ、一貫性が無く注文通りにまとめるのが三池崇史だと言われているのを多々見るが、実際はどれも三池にしか撮れない内容に仕上がっているのだ。ではよく「三池的」に類する評があるが、どのような要素が「三池的」なのか。まず挙がるのは「バイオレンス」と「ブラックユーモア」だと思うが、筆者はそれ以上にこれが三池的だと感じる要素がある。それは「哀しさ」だ。悲しさではなく哀川翔の方の哀。叙情と言い換えてもいい。『クローズZERO』片桐(やべきょうすけ)の葛藤、『新・仁義の墓場』石松陸夫(岸谷五郎)の生涯、『藁の楯』銘苅(大沢たかお)の信念、『FULL METAL 極道』鋼(うじきつよし)の異形の哀しみ、『殺し屋1』垣原(浅野忠信)の最後……。三池の作品に通底しているのはこのような哀しさであり、その演出力の高さが非凡たらしめているのだ。『ジョジョ』でそれに最も値するのは虹村形兆(岡田将生)の「もう俺は引き返せない」であろう。弟・億泰が父親の病気も治るしやり直せる、と諭しても俺はもう沢山の人間を殺している、もうやり直せない、もうお前を弟とは思わないと突き返す。兄弟の断絶、背負った罪、これを的確なカットと構図で語りきる。これこそが三池的だ。主人公・仗助(山崎賢人)の町を守るという決意の背景もやはり哀しさであり、三池は哀の作家である、とここで言いきってしまう。原作通りに、また脚本家を招いて製作しているにも関わらず共通して滲み出るのが作家性だ。また、原作者である荒木飛呂彦の作家性も、映画と漫画、媒体は違えど三池とある程度共通していると思う。4部(ダイヤモンドは砕けない)のラスボス、吉良吉影の「平穏に暮らしたい」のように時には悪役にも共感できる部分があったり、正当性があるのは「三池的」の一つである善悪関係無しに死んでいく(前作『無限の住人』もその一つ)というのと「問題は善悪ではない」で共振しているのではないか。他には過激なシーンが多いというバイオレンス、見栄を張ったケレン味重視の演出も共通していると言えるだろう。こうして要素だけ抜き出すと、監督するべくしてなったという気がしないでもない。「人との出会いには逆らわない」と語る三池(それも多作の理由の一つだろう)だが、「スタンド使いは引かれ合う」映画を撮るのもさもありなんと言える。ただ先ほど挙げた「バイオレンス」が不足しているように感じられるのは残念だ。少年漫画ながらPG12指定の『進撃の巨人』『東京喰種』があったのだから、魅力を削いででも全年齢指定にしたのは問題がある。「ブラックユーモア」については原作の美点を生かしつつそれらしいものに仕上げていたと思うが……。日本に存在する町にも関わらず杜王町をスペインのシッチェスで撮る、というアイデアは三池からの提案だそうだが、この自由な感覚も三池作品の特徴である。ロサンザルスの砂漠に「埼玉県・戸田市」というテロップを載せた『漂流街 THE HAZARD CITY』はその代表例だろう。

極力自分の中で“この街にはこういう情景があって、表札があって、看板があって”みたいな流れを変えちゃいたいってのがあるんです。
もう「どこであるか」は必要なくなってくると思うんですよ。時間も場所も映画なんだからグルグル回って構わないと
――三池崇史の仕事 1991-2003 太田出版


 スタンドという突拍子もない超能力、4部から始めるとそれが余計浮き彫りになる――が、一躍その名を轟かせた『極道戦国志 不動』がスタンドバトル的なケレン味と突拍子の無さに満ちた異能アクションに仕上がっている事からも、三池の趣向と合致しており、本作が原作無しオリジナルの三池作品としても通用しそうなのが面白い。仗助が不良の属性を持っていることからわかるように、不良映画の側面も持っている本作だが、三池は『喧嘩の花道 大阪最強伝説』を皮切りにヤクザと並行して不良を度々題材にしている。仗助と億泰の交流は三池流不良マインドのそれだ。こうやって見ると何気にジョジョとの合致を見せている三池だが、こうなると続編を危ぶまれている現状をよそに、5部(黄金の風)を舞台を日本に移してギャングをヤクザに置き換え、の物語を撮ってもらいたい、という勝手な願望を最後に記す。