ワイルドサイドへの執着

童子の時は語ることも童子のごとく、思ふことも童子の如く、論ずることも童子の如くなりしが、人と成りては童子のことを棄てたり

『アウトレイジ 最終章』――さらば愛しのヤクザ共

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 賞後、というより鑑賞中どんどん加速していった形なのだが、面食らったのである。北野武の映画と言えば「面を食らう、不意を突かれる」という点が大きな魅力の一つだと思うが、今回の感覚は『TAKESHIS’』を始めとする所謂「自己検証三部作」の印象に近い。

この『最終章』で「アウトレイジ」シリーズも三部作だと判明したことになる訳だが、1作目『アウトレイジ』は過去の北野映画以上にバイオレンス要素を強めて、『仁義なき戦い』の現代版と言ってもいい裏切り裏切れの抗争劇を描いたアグレッシブな作品だった。続く2作目『ビヨンド』は1作目で蛇足気味だった大使館、北野映画特有のそれと言える黒人のくだりを削り、大阪「花菱会」の登場、大阪弁独特の迫力を加えブラッシュアップした正当な続編映画だった。だがこの3作目『最終章』は過去2作と比較すると、明らかにパワーダウンしているのだ。物語上は『ビヨンド』から引き続き韓国の「張グループ」が登場し、冒頭がシリーズ初となる国外から始まり、「張グループ」「花菱会」「山王会」「警察」と複数勢力の抗争(駆け引き)でスケールアップしているのだが、意図的にそう見せない脚本、演出によりこじんまりした印象になっている。何より役者陣の高齢化、西田敏行塩見三省両氏が病床からの復帰である。西野(西田敏行)は前作顔負けの演技は元より、実質主役のような扱いだが中田(塩見三省)は前作で常に発していた威圧感、怒号は鳴りを潜めており、別人のようだ。が、しかしこの中田の老衰ぶり(の演出)は間違いなく意図的である。それは今作のテーマが「ヤクザ社会が元より内包していたルーティンを暴く」だからだ。


 今作のキャストは新規の市川(大森南朋)、吉岡(池内博之)と丸山(原田泰造)を除き、全員ほぼ老人である。過去二作にはいた、強面且つ中年以上揃いの中である種華を添えていたと言っていい石原(加瀬亮)や黒幕であり最高のトリックスターであった片岡(小日向文世)のような「フレッシュさ」が皆無なのだ。売りの一つであったバイオレンス描写もR-15指定なのを疑うほど抑え目だ。これはまさしくパワーダウンと言えるが、それはやはり意図的としか思えないのである。過去作がヤクザないしヤクザ社会に向けていた視点とは違う、と言ってもいい。たけし演じる主人公、大友ははっきり言って今作では部外者である。いなくても話が成立する。国外から日本にケジメを付けにやってくるという物語上の構造からしても、部外者なのである。故にヤクザ社会への視点が一歩引いた傍観、あるいは諦観と言っていい冷めた様が生み出されている。少なくとも「バカヤロウ!」「コノヤロウ!」を捉える肉薄した目線では無い。『仁義なき戦い』五部作で描かれたのは「年月を経ても変わらない仁義なき社会の構造」であり、それは我々が生きる実社会そのものだ。広能(菅原文太)は何とか「仁義」を通そうとするも、それが尽く踏みにじられていき、うまい汁を吸うのは「暴力を一度も振るった事が無い」と豪語する山守(金子信雄)である。何も知らない若者を鉄砲玉に使い、上の連中は手を汚さず胡坐をかいているという、不条理極まりないヤクザ社会を現実のカリカチュアとして描き、そこに時代を超える普遍性があった。広能は結局無駄な血が流れ、今後も流れることを予感しつつ物語を終えた(形になった)のだが、この『最終章』の、『仁義なき戦い』の監督である深作欣二ではなく、北野武が監督した場合はどうなったのか。ケジメをつけるために帰国した大友はサングラスをかけ、感情を見せることなく仁義に反するヤクザ共を次々と殺していく。監視役である李(白竜)の「これで終わりですよね?」の制止も聞かず、もはや殺人マシーンと化すのだが、最後には「会長によろしく」と言い遺し、拳銃を顎に突き付け自ら命を絶つ。これは広能と同様の諦観故の行動であり、やけくそともとれる行為だ。一人や二人殺したところで社会のシステムは何ら変わらないのであり、無意味と切り捨てられるものだ。だが大友は自ら手を汚し血を浴び、ケジメを清算しようとする。広能がコトを起さず完全に諦観の様相をとっていたのに対して、できるだけ試みようとするのが大友と言える。李に拳銃を突き付けられ、糸が切れたように命を絶つ大友は「行動を起こさない(やめる)」広能と同じ境地だったのだ。大友の死後も何ら変わらなく、この先も永遠にヤクザ社会のルーティンが続いていくというのは、『仁義なき戦い』五部作が描いた境地と同じ位置にある。既に死亡した片岡は、抗争劇を操り事態を荒らげ出世を企むという点でまさしく「アウトレイジ」シリーズにおける山守だと言えた。『ビヨンド』のラストは大友が片岡を射殺し終わるわけだが、『仁義なき戦い』が山守をある種聖域として描いたのとは逆で、言うならば広能が山守を殺れた話ともとれる。『仁義なき戦い』の「その先」を描いたともいえるが、やはり抗争は終わらない。ヤクザ社会のルーティンは変化せず、不毛の地獄は果てしなく続く。西野は大友を「古臭ぇ極道」と称したが、西野らが続け続けていく抗争ゲームもルーティン内の変わり映えしない、ある種古臭いと言っていいものであるのが皮肉である。


 北野映画の要素の一つに「反復」というのがあるが、今回も過去2作から反復している箇所があり、それもまた今回のテーマと合致している使い方に思える。繁田(松重豊)が大友を取り調べするくだりは、1作目の片岡が大友にするそれと構図とカット割りがほぼ同じだ。野村(大杉漣)が愛想を尽かされて離反されるくだりは、前作の加藤(三浦友和)と同じであり、花田(ピエール瀧)が「調子に乗って怒りを買い処刑される」キャラクターなのは石原と同様である。処刑方が時間差を活かしたものであるのもそうだし、処刑後のカットの変わり方もそのアングルもほぼ一致している。ヤクザのやる事などそう変わりはない、と言ってしまえばそれまでだがそれが今回のテーマなのだ。片岡の後輩であった繁田の顛末も、やはり諦観の様相を示している。『ビヨンド』では「ヤクザなんてゴミ以下だぞ」と語り、常に不服そうな表情が印象的だったが、今作では大友と警察の堕落ぶりに感情をぶつけ、見切りをつけ辞表を出す。「もう俺は知らん」とでも言おうか、物語と繁田のキャラクター両方に説得力があるのがやはりと言うべきか巧い。


仁義なき戦い』五部作が全作同じテーマ且つ同じ着地であったのに対し、「アウトレイジ」シリーズはどれも明確にカラーが違っており、「いつまでも続けられるがキリが無い」という北野の発言にも納得できる。「ヤクザ社会のルーティンを」を描くならパワーダウンも仕方が無いのだが、パワーダウンを良しとする考え自体が「信者」的であると言われれば否定はできない。『ソナチネ』と比較する意見が散見されるが、あちらはヤクザをイノセントに描いていた。それに対し今作のヤクザは邪そのものであり、そこが最大の違いではないか。『ソナチネ』が「愛」なら『アウトレイジ 最終章』は「哀」だ。


 補足として、若者から犠牲になっていくというのが『仁義なき戦い』に帰結するか、と思った点なのだが、出色なのはやはり、原田泰造の丸山なのだ。もう若くなく暴走族上がりで要領が悪く、鉄砲玉で無様に死ぬというキャラクターが非常に良い。ヤクザ映画の良さに「青春を無意味に散らす(若)者」が出てくるという部分が間違いなくある。その情けなさ、それこそ哀を体現した「しょうもなさ」にどうしようもなく感情移入し感極まってしまう。予告にもあるこのカットが満点。ジャージに「詩」。

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