ワイルドサイドへの執着

童子の時は語ることも童子のごとく、思ふことも童子の如く、論ずることも童子の如くなりしが、人と成りては童子のことを棄てたり

『あゝ、荒野』――殺されるくらいなら、ブッ殺してやる

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 篇、後篇の形式で公開され、その合計の上映時間が305分(5時間5分)という事から分かる通り、まず歪な映画であるのは間違いないだろう。新宿新次(菅田将暉)とバリカン建二(ヤン・イクチュン)を取り巻く人々の物語というだけで十分なのに、「自殺抑止研究会」なる学生団体の物語が、唐突に脈絡なく挿入されている事も拍車をかけている。

寺山修司作の原作が「モダンジャズのようにアドリブ、且つ様々な要素をコラージュしていく」手法で描かれたという経緯からして特異である。寺山修司に関して、ハッキリ言って筆者はよく把握していない。「時代を超えて人々を魅了するカルチャーアイコン」と言われても正直なんのこっちゃ。だが監督した長編映画は「好き」と言えるし、目に見えて分かる特徴が厳然として存在しているのも分かる。その監督作の中からなんとなく理解した(つもりでいる)「寺山修司」はモヤのようだが理解はしているつもりだ。まず最初に観た『田園に死す』が強烈で、数作ある寺山映画の中で恐らく一番訴求力が高い作品だろう。ベットリ染みついて離れない田園の故郷、挑発的なメタフィクションからなる構成、母殺し……「一人の男が汽車に乗る為には、その男の母親の死体が必要なのだ」。この独特としか言いようがない世界観に魅了された。「母殺し」は寺山世界の重要なワードであるらしく、今作でもオリジナル要素だという新次の母親、京子(木村多江)にその要素が見える。更に原作では新次より年下であったバリカンの年齢設定を、「兄貴」と呼ばれるような年上に変更している。これにより「父殺し」的な意味合いを帯びさせている事も重要だろう。処女作である『書を捨てよ町へ出よう』は冒頭から主人公がスクリーンの外、映画を観ているこちら側に話しかけてくるという、既成の概念をブチ壊す始まりである事から分かる通り、全編その調子の、先述した「モダンジャズのような~」という形式を映画でやっている作品となっている。鬱屈した青年が「俺は人力飛行機で飛んでやるぞ!」と叫びながら街を疾走する。このイメージは新次とバリカンの両方にそれぞれ課せられている、と言えるだろう。アート系のATGから一転、配給を東映に変更し主演に菅原文太を迎え……という経歴から異色作に見える『ボクサー』だが、寺山が作詞を担当した『あしたのジョー』的な泥臭いボクシングの物語に、従来の観念的なシークエンスを混成させた意欲作である。そのものズバリ「泪橋」を冠した主人公らを応援する面々も登場する。清水健太郎扮する主人公が片足に障害を負っていたり、文太扮するコーチも視力を失いつつあるといった『あゝ、荒野』の系譜を感じさせる部分が数多く設定されている。


 新次がボクシングを始める理由は「かつて裏切られた仲間をリングで殺す」というものであり、その野性的で凶暴な性格は、映画全編に渡って登場する濡れ場でも垣間見える。対してバリカンは「自身の弱さを克服するため」であり、この二人の性格はおおよそ対照的なものだ。現代の青年の言わば「陰と陽」のような物語的役割が二人に託されている。けれども二人は同じジムで寝食を共にする内に、しだいに兄弟のように親しくなっていくのである。新次はデビュー戦で一発KO勝ち、バリカンは気の迷いから負けてしまう。次第にバリカンは自身の、韓国と日本のハーフ、吃音障害といった諸々の出自、「繋がりたい」という曖昧だが確かに欲しているものを獲得するために、在籍していた海洋拳闘クラブを辞め、新次とリングで対決する道を選ぶ。新次は因縁の裕二(山田裕貴)戦を釈然としない心持で終え、恋人である芳子(木下あかり)から逃げられ、ジムも解体されるという事態を経る。バリカンに向けた「アイツ、俺と繋がろうとしてる……その手には乗らねぇ」という言葉から分かる通り、あくまで新次は「殺す」、攻撃的でハングリーな思考を常に持っている。『ボクサー』でも登場する「ボクシングではより相手を憎んだ者がチャンピオンになる」という「憎めるか理論」を常に実行し、憎んで殺してまた憎んで……。けれども彼が求めているのは、そのような殺伐とした様でありながらもバリカンと同じ「繋がり」ではないかと、どこかで思わされるものがある。バリカンは新次とリングで相対するも、結局「憎めなかった」と独白しながら、果てしないパンチを食らう。「僕はここにいる、だから、愛してほしい」。これは己の不甲斐なさも何もかも肯定して抱きしめてほしい、というこの上なく切実な叫びだ。追悼のようなある種、神々しいBGMからなるラメントを受け、バリカンは文字通り絶命する。これが原作を知らない筆者にはとてつもない衝撃だった。長尺を使い、バリカンの人生を描き、寄り添っていたように見えたというのにそれを根底からひっくり返してしまった。ラストカット、控室に佇む新次がスクリーン外のこちらを(『書を捨てよ~』のように!)ジッと見つめる。そしてフッとそっぽを向き、ゴングが高らかに鳴り響く。それはまるで、新次がこちら側に「本当に殺してやったけど、どうだ?」と問いかけるようだ。鳴り響くゴングは「じゃあ、お前はリングでどうするんだ?」という観客への問いかけに他ならない。305分を使い、蛇行しながら達する結論は「これを見たお前はどうするか?」であり、その姿勢はまさに最初の寺山映画である『書を捨てよ~』にグルッと一周して戻ってくる様でもある。過程は感動的に描きつつ、ミもフタもない現実を最後に突きつけるのは、普段我々が気に留めていない隠れた欺瞞を暴いているのだ。結局最後に残るのは「強者>弱者」の構図であり、それに帰結する事が本作をより意義深くしているのは言うまでもない。


『ボクサー』よろしく、そのまま「(あしたの)ジョーのマインド」を、舞台は近未来ながら描いているという、昨今の映画らしくない(あえて語弊がある言葉)世界観なのも何よりの魅力である。海洋拳闘クラブを取り巻く、片目(ユースケ・サンサマリア)、馬場(でんでん)、宮木(高橋和也)らはそれぞれ分担されたかのような丹下段平ぶり。最後の試合を見ながら号泣し、試合終了を阻止しようとする宮木の姿にはやはり感情移入して感極まってしまう。2021年の新宿(2017年現在から換算するとわずか4年後)東京オリンピック後のお先真っ暗と言っていいニッポンで拳で語り合う男達、それを取り巻く人々という構図にやはり絶妙な味があるのだ。特集が組まれた「映画秘宝」11月号に「前篇と後篇で明らかにタッチが変わっている」という記述があるが、それはそれぞれのオープニングで、端的に表現されているのも興味深い。前篇は爆破テロの騒動を横目に、ネコババしたラーメンを一人食べる新次が「あゝ、あゝ」とつぶやく。後篇は競馬場で片目と「決められた運命に抗わないと味気ねぇだろ」と気張る新次の後に、トレーニングに疾走する新次とバリカン。このスタイルの違いだが、要するに後篇はより直接的に、饒舌になっているのだ。これにより後篇を下に見る向きがあるのも理解できるが、筆者としては後篇のある種気取らなさに惹かれる。敬愛している実写『進撃の巨人』もそうだったが、筆者が映画に求めているのは自己啓発の側面がかなり大きい。2017年の映画でベスト1。


備忘録
・パンフレット未掲載の「著名人応援コメント」

http://kouya-film.jp/comment/

やまだないと氏による「バリカンと新宿」あくまで原作が下敷きだが、映画の精神性も表していてこれも大傑作。「俺にはどこまで可能性をはらんでいる まるで一望の荒野のようだぜ」

www.moae.jp