ワイルドサイドへの執着

童子の時は語ることも童子のごとく、思ふことも童子の如く、論ずることも童子の如くなりしが、人と成りては童子のことを棄てたり

『こんな夜更けにバナナかよ』――理屈ではない世界の仕組みについて

f:id:mcxieoyreivblasowe:20190321084621j:plain

わがままもいっぱい言っただろうけど、でもそのわがままというのは、あくまで健常者から見たわがままなんですよね。
『こんな夜更けにバナナかよ』って、動けないなら、食べるなよっていう論理なんだよね。
――「キネマ旬報」2019年1月上旬特別号 大泉洋グラビアインタビュー P94より


 害者にまつわる言説は常に繊細が求められる。映画史における障害者と言えば個人的筆頭に上がるのは「座頭市」だ。盲目の侠客である座頭の市が仁義に乗っ取って悪人を斬りまくるアクション時代劇だが、背景にあるのは「健常者に馬鹿にされ続け、見返してやるためにめくらめっぽうで身に付けた業」によるものという深く暗い断絶である。

前提として江戸時代の時代劇であるから、差別の度合には現代と雲泥の差がある。しかし根底にある意識は恐らくさして変わらず、真っ黒な澱が厳然と存在している感覚が拭えない。最も大きな要因は「変わっているから、人と違うから」というものだ。傍から見れば奇異に見えたり、滑稽だったりする。当人とその周りの人々からすれば極めて切実な事情であるのに、それを考慮できない、しない、見て見ぬフリをする。社会というものはルールの遵守を最重要視し、それに人々は従って生きていく仕組みらしいので、よって「違う」ことを何より恐れる。不寛容の鎖に雁字搦めにされて、生きていく厳しさが昨今はより加速しているとかしないとか社会学の見識のある方面から聞かれるが、本作『こんな夜更けにバナナかよ』(以下『バナナかよ』)はその常識をブッちぎってみせるのが爽快なのだ。

エモーション(英語表記)emotion
情緒。感情。感動。心理学では情動という。
出典 小学館/デジタル大辞泉


『バナナかよ』はエモーションで回っている。鹿野(大泉洋)の一見して傲慢そのものとしか思えない態度に愛想が尽きた美咲(高畑充希)だったが本人曰く「仲直りデート」を提案する鹿野。北海道らしいバーベキューだ。殆ど適当に流している美咲だったが、偶然バンドの生演奏が行われており吸い寄せられていく。ロックは苦手な鹿野だったが車椅子を自在に操作し、美咲の後を追う。元から好きだったらしくノリノリの美咲。歌って踊る。鹿野も何だか楽しくなり一緒に回って笑う。元気に笑う二人。そこで発端である仲違いはもはや忘れられた。このくだりにやられた。理屈抜きの感情の爆発、エモーションが画面を支配している。すぐに食べ過ぎによる急な便意でトイレに間に合わず漏らす鹿野で笑いをとる。励ますように美咲「私も漏らしたまま試験受けたもん」「ロックだねえ」これ以上何が必要なのか。以降も美咲と田中(三浦春馬)の初々しいやり取り、木の周りをグルグル回って見せる距離感だったり、後半の医師の忠告を無視してボラ(ンティア)の独断で治療を進めてしまうといった人間の生の感情で物語と画面が進んでいく躍動感が心地良い。反して鹿野と美咲の恋物語は実にロマンチックだ。偶然「仕様」するためのAVを発見してしまい微妙な空気感になる二人。感情が高まって手を重ねようとするが「普通ならこういう時抱きしめてやるんだろうな」ハードボイルドかよ。逆に抱きしめる美咲。外では雷が鳴っており部屋は暗くなってきている。ここの撮り方は現実のリアリティと相反するが、映画で魅せるとはこういう事だという確信がある。


「障害者は迷惑をかけることで社会と対等になれる」という鹿野の論理は健常者が聞くと暴論を思うだろう。だがその既存の綺麗事や建前や理屈を超えて見えるものがあることを本作は提示している。自らを偽善者と貶める田中は鹿野のわがまま、つまりは自分を貫く生き方に感化されるも一旦は目を瞑ってしまうが、偶然目の前で倒れた少年を前にして咄嗟に体が動く。自称偽善者の彼。美咲と鹿野の関係に嫉妬してしまう罪悪感、やりきれなさを抱えて不純を自覚する彼は最も観客目線の人物だが、体を張った鹿野のサプライズによって絆され、自らを肯定し夢を追うことを再確認する。それは偽善者で不純で何一つ明白でない世界を生きる我々の肯定を意味する。夢を叶えた美咲にオーバーラップするブルーハーツ「キスしてほしい」を鹿野とボラの人々はこう唄っている。「生きているのが素晴らし過ぎる」と。そう思って日々を生きている人間がどれだけいるだろう。そういう人間の背中を押してみせる、希望を提示するのもまた映画の役割である。エンドロール後に鹿野靖明氏本人がスクリーンのこちら側を笑っていた。


 補足として、キュートさと健康的なエロスを湛える躍動溢れる高畑充希、凡人の苦悩を特に表情で魅せる三浦春馬、個性豊かなボラの面々と俳優陣が素晴らしいが、大泉洋が鹿野を演じなかったらまず本作は成立していないだろう。キャラクターありきで嫌味があると駄目なのだ。そこに乗れるか乗れないかで決まるし、スター映画でもあると言える。あと実話をベースにした『ボヘミアン・ラプソディ』と印象がかなり似通っている。あれも肯定する映画だった。