ワイルドサイドへの執着

童子の時は語ることも童子のごとく、思ふことも童子の如く、論ずることも童子の如くなりしが、人と成りては童子のことを棄てたり

『岬の兄妹』――走れない現実

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 れは何事もそうなのだが、人は自然と慣れるように出来ている。最初は心に留めておいたのに時間が経つにつれて忘れたりどうでもよくなったりする。嬉しかったり苦しかったり、時々の様々の感情を忘れていくのも慣れの効用の一つである。

人一人のキャパシティには限界があるので、そんなに出来事を一々記憶して対処できる程上手く出来ていない。あるいは慣れることに助けられているのかもしれないし、重要なものを見落としてしまう事もあるだろう。『岬の兄妹』はそんな慣れの、都合の良い欺瞞性に刃物を突き付けるような映画である。「しょうがない」と何となく慣れてしまっている、否、勝手にないものとしている現実の認識に対する刃物である。障碍や貧困に直面している人々に対して、何の気なしに「うわっ」と思ってしまい素通りする。自分や身の回りの事で精一杯なので、いちいち気にかけていられない。しょうがないとして、慣れたものとして素通りするそれこそまさしく欺瞞ではないのか。「俺らはあんたらのせいでそうなっている」のではないのか。でも一体この現実をどうすりゃいいのだ? それに「偽善者って言うんだよ!」その通りなのかもしれない。ひたすらに気持ちの行き場が無い。いかに自分がくだらない人間でろくでもない現実認識のもとに生きているのか、罰せられるような気持ちになる。


 普通、映画のようなメディアはカリカチュアないしゾーニングされている。過剰な汚れは加減して提出されるものだが、本作はそれが機能していないように……見えた。いや、よく見ればギリギリの、クレバーにきっちりと線引きがしてあるのが分かる。しかしこれを映画として評価していいものか迷いがどうしてもある。器から零れているんじゃないのか。ハッピーエンドなんて見たくないぜ! のスタンスなのでむしろ歓迎するべきはずなのに、やはり映画はもっと幸福な方がいいのではないか。じゃあ映画として駄目なのかというとむしろ、極めて強固に映画である。どうしようもない状況なのに綺麗に見えたり美しかったり笑ってしまうような瞬間の刻印。リアリズムを超えて象徴的な光景。感情の曲線が行動に転換する動作。劇場を出た後に顔が変わるような価値観の転倒。正に映画的な要素に満ちており、それが逆に腹立たしいという希有な感覚を生み出している。偏愛する三池映画のような感覚もある。フレームから内面的にも物理的にもブレている人間の美しい瞬間といったような。『日本黒社会』が一番近いか。リアリティとユーモアとペーソスの融合。走るという行為は見る者を魅了する効果があるが、こと映画に関して走るシークエンスは特権的な位置にある。演者とカメラが疾走して画面に焼き付けられる躍動感は格別に印象に残る。良夫が疾走するのは夢の中である。染みついて消えない足の障碍を忘れ、子供に混じって子供の様に純粋に無責任にはしゃぐ姿である。このシーンこそ本作の思想が明確に表れている。所詮自由なのは夢の中だけに過ぎないのだ。そもそも映画とは夢の中の世界の産物なのではないか。不自由なまま夢の外で這いつくばって生きていくしかないのかもしれない。


 いや、初見時に生じた感情はもっと切羽詰まっていた。いくら思いを馳せたところで実際にそこで生きていない、お気楽な悟りに過ぎないんじゃないのか。もっと「映画」として語るのではなく肌感覚の「現実」として捉えるべきである……。しかし2回目の鑑賞時にはもう映画として純粋に評価する感覚に移行して、慣れてしまった感がある。悲惨とばかり捉えるのではなく、とにかく生きんとする意思も見るべきだろう。けれども、その慣れにこそ抗わなければならない。本当に、あっという間に忘れ去って受け入れた気になるが、慣れてはいけないんである。少しでもそれに気づかせるのが映画、フィクションの有り様として一つの理想形を見る。こんな駄文を書いている時点で慣れてしまっているんじゃないのかとも思うが、自覚できるだけ自覚する。慣れては、いけないのだ。本作を観てダメージを受けないとすれば、とても強いか、無自覚かのどちらではないか。露悪的に過ぎるとか、やもすれば軽く扱う見方ができる程全然冷静に、自分はなれない。やっぱり弱い人間なんだなぁ、とひたすらに色々と気付かされるのであった。


 初見時の劇場座席の状況は自分を含めて二人きりで横に近い、というものであった。シーンによってポップコーンを探る動きが止まる気配を感じ、上映終了後いそいそと出ていく雰囲気が妙に記憶に残る体験だった事も付記しておきたい。