ワイルドサイドへの執着

童子の時は語ることも童子のごとく、思ふことも童子の如く、論ずることも童子の如くなりしが、人と成りては童子のことを棄てたり

『天気の子』――少年よ、銃を取れ(取らない)

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もしも罪を犯し 世界中敵にまわしても あなたと眠る夢を見続けてたい
――aiko 「あした」


 ー、映画、ひいてはフィクション全般は野蛮であってほしいと願っている。教科書で教えてくれるような道徳的で社会の規範に沿った「良い」とされる概念をブチ破って、実現し得ない心の解放とでも言うべきカタルシスをもたらす、故にとても力強い。法律を破ろうが世界を滅ぼそうが何をやっても良い。かといって倫理と論理を無視した無法地帯でもない。だが、基本的に倫理と論理とはやはり相性が悪いものであってほしい。

その意味で新海誠が「報道にも政治にもできない事をやりたい」というような趣旨を語っていたのには感銘を受けたのだが、観ている間に感動したい気持ちを妨害してきたものがある。つまりそれはセカイ系なる物語体系の気持ち悪さであった。一旦身を引くとたまらなくどこまでも冷笑的に観察するように見えてしまったのである。


セカイ系」の定義については多様で一概に把握が難しいのだが、私見では「世界と自分が等価」な作品、内容について指すものだとしたい。ポストエヴァンゲリオンである点を重視したり「きみとぼく」つまり彼女の存在を必須とする等、包括するのには困難を極める……よりかは歴史の文脈から辿れば2010年代には既に終わったものとされるのにつけ、各々の解釈によっていくらでも定義できると言った方が正しいように思う。いや、自分はセカイ系に憧れているのである。90年代後半~00年代前半のカルチャーから発せられる独特の匂いの中でも特に胡散臭い、きな臭い、だからこそ惹かれてしまう特有の吸引力を感じ取った。一人の自意識によって世界がどうとでもなってしまう乱暴さ、チープだが正しく「どうとでもなれ」と日頃から考えているような、それこそ自意識が肥大した人間からすればこの上なく魅力的で自己と同化できる物語。しかし裏返しとしてある欠点、評論家から言われるような問題点はそもそも根本的に一人が世界の決定的な運命を握るなんて有り得ない、それはまさしく肥大した自意識に過ぎないということだ。


 帆高は陽菜さんを救うために警察署から脱走して線路を衆目に晒されながらも走って走る。法律なんて無視して彼女のためだ。それ以外はどうでもよい。おお、これこそまさしく野蛮のフィクションではないか。一人の少女を救けるために論理と倫理を捨てて少年は走る。そこには何よりのカタルシスがある。というか初期衝動に準じてそれを手段がいくらアナーキーであろうが肯定する構図は『狂い咲きサンダーロード』のそれと全く同じではないか。純100%のような清涼な背景で恋という衝動に準じてバイクをかっ飛ばす帆高と暴力と怒号が立ち込める幻の街サンダーロードで自暴自棄の破滅の果てに地平線にかっ飛ばす魔墓呂死の仁。同じである。やっぱり映画はアナーキーであってこそだ。一般層にデカデカと向けた超大衆映画の中で遂行した新海誠の姿勢はとても好ましく見えた。だが、仁はせいぜいサンダーロードと無数いる荒くれ共、右翼の隊長を天秤にかけたに過ぎなかった。帆高は分不相応に、天候を左右する世界の仕組みに首を突っ込んでしまったのである。世界の危機と少年少女の恋を結び付ける節操の無さに感動よりも辟易が先に来た。余りにも抽象的に示される天空世界の説得力の無さにはフィーリングをもってしても対抗できない。説得力など持ち得ようがない物語であるのだから、放棄しても構わないのだ。だがRADWIMPSの劇伴で散々盛り上がっても冷めたままなのは変わらなかった。登場する大人達は散々、態度や言葉でその有り得無さを指摘する、ことによって中和し中立の立場を保つ効果を得るのに成功しているようにも見えるが、どうしても染みだしてくる気持ち悪さがある。セカイ系とは自己言及性の文学であるという指摘がある。

これらの諸作品は、ほとんど過剰なまでに、自分たちの出会う不思議な登場人物や事態が、フィクショナルでチープなもの(ロボットアニメ、侵略SF、変身ヒーローもの、本格ミステリ、そしてセカイ系)でしかないと作中で指摘し続けるのである。しかし、それをちゃかしたり笑ったりするのではなく、きわめて深刻な自意識の悩みという主題を展開する。
――前島賢セカイ系とは何か」


 すなわち本作もセカイ系である証左を発見したように思え、内心ほくそ笑んだのだが裏腹に出て来たのは憧れていたはずのセカイ系への嫌悪である。これは何故なのか?そもそも憧れていてこそすれ、実際にセカイ系と呼ばれる作品については殆ど、いや全くと言っていい程に触れていない。勝手な片想いのようなもので、想いこそすれ言葉をかけれられないでいる……と言えば純情で好ましく見えるがただ単に不勉強なだけである。しかし一つだけセカイ系と呼ばれる、いやその作品群の中でも時系列の初期に属し多大な影響を及ぼしたとされる作品は愛好、いや偏愛している。「ブギーポップ」シリーズだ。1998年に第一作『笑わない』が刊行され2019年現在に至るまで続いており、ラノベというジャンル全体あるいは内外に衝撃を与えたとされている。ブギーポップが好きだからセカイ系も好きという思考は多様な定義の前ではやや安直に過ぎたかもしれない。ならば『天気の子』と「ブギーポップ」の何が違うのか。『笑わない』で描かれたのは結局のところ「世界、状況とコミットできない」感覚であった。作者である上遠野浩平の著作は一貫してこの感触に貫かれていると言ってもいいと思うが、世界の危機と直面しているのは限られた、選ばれた人物だけなのである。普通人足る我々は所詮傍観し、気付くことも無く日々を過ごしていくしかない。世界の危機は隣接していても中心には届かない諦観が前提にあるのだ。物語の中心人物にはなれない切なさなのである。第三作『「パンドラ」』などはその中心に少年少女が届いてしまった物語だが、仲間達が次々と死んでいく行き場の無い気持ちがやはり前面に出て来る。対して『天気の子』は帆高の決断によって大惨事を引き起こす悲劇は捉えられているが、二人がいる場所が世界の中心であり、事態は二人に沿って進行するのである。これによって描かれるのはセカイとの断絶による諦観とは違う意識に他ならない。故に辟易してしまったのだ。しかし「ブギーポップ」も『天気の子』もセカイ系としてラベリングされる作品なのは間違いなく、そこにセカイ系という言葉の厄介さがある。公開後、改めてセカイ系について議論が交わされているが、曖昧な言葉を各々の解釈に照らし合わせて語るので話が噛み合わない、という模様を垣間見ることが出来る。つくづく根が深いと言えよう。


 予告で「もう大人になれよ、少年」の台詞と共に印象的に登場する銃だが、これにはワクワクさせられた。銃。それは男の、男の子の憧れ。肉体ではない衝動的な暴力の噴出。形状から察せられる妖しさ。銃と少女と世界の変貌。もしや秘密組織!? 実際に本編で発せられる「大人になれよ」は全く違う場面であり、つまりはミスリードだったのだが否応にも期待が膨らんだものである。邪険に扱われ、偶然ゴミの中から発見した銃を訳も無く持ち歩き、陽菜さんを救ける為にヤバそうな連中にぶっ放す。しかし外れる。もう少しで陽菜さんを救けられるのに大人共に邪魔をされ、銃を使って威嚇しつつ逃げようとするもやはり捕まる。本編中でも少なからず印象的に登場するアイテムであるのに、おおよそ役立っていない事に注目したい。幼稚な男性性の発露と取るのは容易だが、前述の『狂い咲きサンダーロード』と比較するならば暴力に頼らない作劇なのである。銃で撃って終わりにしていないのだ。あくまで事態を解決するのは陽菜さんである。不自然なまでに帆高を受け入れてくれる陽菜さん。そもそもこの物語は陽菜さんの許容力で機能している。少年は幼児性を十分に発露できずに保持したまま、少女がそれを聖母の如く包み込む。銃を取りつつも、取らない。つまりはここに新海誠の作家性あるいはセカイ系(きみとぼく)のドメスティックが集約されているのだと思う。

 

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togetter.com

 

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