ワイルドサイドへの執着

童子の時は語ることも童子のごとく、思ふことも童子の如く、論ずることも童子の如くなりしが、人と成りては童子のことを棄てたり

『狼煙が呼ぶ』――ANARCHY IN THE SKY

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 つも通っている映画館の前で見覚えのある人が煙草をふかしていた。朝の10時頃である。この映画館は歩道に隣接している位置にあるのだが、ここで喫煙するというのは所謂路上喫煙に当たるんじゃないのか、大丈夫なのかな?と少し不安になった。(詳しくは知らない、自分は煙草を吸わないし法律も全くわからないのでひょっとして問題ないのかも知れない)。

規律に準じて人に迷惑を掛けない様に生きようと心掛けている自分は例えそれが迷惑行為に当たるとしてもどこか、何か、憧れのような感情も同時に抱いた。その人が後ろを向いた。服には英語で「ANARCHY IN THE SKY」と書いてあった。何て危なそうな人なんだ……ひょっとしてこの人が……? と思ったのは当たっていて、本作『狼煙が呼ぶ』舞台挨拶の為に待機している豊田利晃監督その人なのであった。一見温厚そうに見える顔つきなのに、ヤバい映画を作る人はやっぱりヤバいんだなぁ……と再確認した。ちなみに調べてみるとANARCHY IN THE SKYなんて言葉は無いようで(いかにもありそうに映った)、実際のところ見間違いのセックス・ピストルズ「ANARCHY IN THE U.K.」だったんだと思う。だから何だ、という話だが印象として記しておきたかった。


 豊田利晃監督と言えば『ポルノスター』『青い春』『ナイン・ソウルズ』で見せたザラついてるのにギラギラしている破滅的青春映画の人である。暴力と血で彩られた半端な救いなんてお断りだぜ、に貫かれた90年代後期から00年代前半にかけての時代の空気を纏った鬱屈感。何を考えているかわからない刃物そのもののような得体の知れない不気味な男が辿る結末は「お前がいらないんだよ!」と身勝手から来る報復によって画面から消える。クールでイカしてる友達にコンプレックスを抱く人相の悪い少年は自らの命を絶って自己実現を果たす。脱獄囚の引きこもりのような男は薄っぺらさの権化のような弟を殺しに行く前にこう独白する。「許せない奴……俺に似てる奴」。彼らに救いは無い。その救いの無さに自分は心から共感し、同情し、泣いた。この様な感情を喚起してくれる映画を一番求めている、と思う。トゲだらけの心に寄りそう映画を作る大好きな監督なんである。しかしながら近作は観れていないのだが(……あのな)、直近作に当たる『泣き虫しょったんの奇跡』では堂々として「健全な」メジャー映画の風格を漂わせつつもそこはあくまで豊田映画、敗者の抜け出せないヒリヒリとした感触を存分に画面に叩きつけていた。


 『狼煙が呼ぶ』は短編にして16分の映画だ。しかも台詞は一切無い。贅肉が一切ないやりたいことだけをやっている。画面に登場する渋川清彦の歩き方に注目したい。明らかに決然とした、迷いがない力強い歩き方なのだ。そして延々と長い階段を昇って行く。それをカメラは捉え続ける。神社には一人の男、中村達也がいる。二人が出会う。続々と男達が集まって来る。静かな佇まいの者もいれば、荒くれものらしいガヤガヤとやって来る集団もいる。共通しているのは渋川清彦のそれと同様の覚悟だ。浅野忠信が不敵にやって来る。手にしている紙風船を落とす。階段を転がり落ちていく。合図である。戦闘開始の合図である。神社に陣取り男達は刀を抜いていく。何者かを待ち構える。渋川清彦は懐から拳銃を取り出す。……男達は何と戦おうとしているのか。何に立ち向かおうとしているのか。現代に残るその銃を見ても、わからない。わからないが何かわかる気はするぞ?……転じて一人の侍、松田龍平がビルの上から、今の、2019年の日本を見下ろしている。本作の明確な意図は権力への懐疑である。拳銃所持で逮捕された事に対する監督自らの映画での返答だ。映画が持つ原初的な「動く」事の拘り、台詞ではなく画面で語る、政治的な事は抜きにしても(後述するがこれは本作の感想として極めて傲慢な気がしてならないのだが)、とてもカッコいい映画だと思った。抗うっていうのはやっぱりカッコいいのである。前述した豊田監督初期作に見られるソリッドさ(お馴染みスロー!)が帰って来た感がありありとあった。殆ど話をネタバレしてしまったが、何も問題はありません。何故なら劇場のスクリーンで音響で、何しろ「切腹ピストルズ」(!)による終始鳴り響いている劇伴あっての本作だからだ。画面を見るのが映画、という意味で文字によるネタバレなどは意味がないのである。


 上映後舞台挨拶が始まったが、サプライズとして豊田組の俳優でもありミュージシャンでもある中村達也が登壇した。いや、チケットを確認する時にザワつかれている怖そうな人がいるな、とは思ったがまさか客席から登場するとは驚いた。多分初めてここまで怖い人を生で見たと言いたい。私的にはハイローで九龍グループの人なのだが、まず顔が怖い。金髪。シャツから覗くタトゥー。サインに応じている時に脱いでいたのを見たら上半身にビッシリ。前の方の座席だったのでちょっと目が合ったりしても無理である。怖い。というか他人全てにそういう態度を取ってはいるのだが……。お二人の文字通りアナーキー放送禁止用語が連発される、独特なテンポ感に包まれたトークは当然権力への不信感、どうにかなんねぇのかという趣旨であり、大変面白く「笑っていいのか? いいの?」を随所に感じられるものであったが、しかし自分は政治には無頓着なのであった。たぶんこれは本作の意図と反する欺瞞で怠惰的な態度になってしまうのだと思う。馬鹿だからわからない、お前はメロスかという話であるが、確かに感じた「カッコよさ」だけはわからないなりに不変の尊い価値観なのだと信じる。正しいとか間違いとかではなく、尊ぶものだと傲慢ながら信じる。最後に一言、を振られて困るお二人であったが、豊田監督が言った「映画にしろ何にしろ、料理だって自分を表現するという事は「狼煙を上げる」ようなものです。皆さんもそれぞれの場所で狼煙を上げて下さい」。中村達也の「色々難しいけどとりあえずドラムを叩いて、それからだ」。……を聞いて何とかやっていきたいと思った。狼煙を上げたいと思った。

 
 全くの余談、勝手に二本立てとして『HELLO WORLD』と組んでみた。全く正反対に見える内容にも関わらずどちらも「映画」で改めて映画の面白さを発見した次第。この二本が映画としてカテゴライズされて、それぞれのジャンルの中でこの上も無く誠実さを果たしているのだ。ていうか豊田監督も「劇場で映画を観てくれてありがとう」と言っていた。映画観ましょう、映画館で、はい。