ワイルドサイドへの執着

童子の時は語ることも童子のごとく、思ふことも童子の如く、論ずることも童子の如くなりしが、人と成りては童子のことを棄てたり

『シン・ゴジラ』に足りないもの、それは製作者のイジワルである

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 日でIMAXを2回、その後に1回。計3回。8月5日現在、『シン・ゴジラ』を劇場で観た回数である。1回目は正直「う~ん」となった。予告の印象からドが付く位のシリアス調なんだろうな、と予想していたからである。実際はコミカルなシーンも多々ありの見方によればトンデモもありの正調空想特撮映画であった。

それを承知した上での2回目は大変楽しめた。心の底から「大好き」とは言えないが、距離を置いて「大好き」と言えるような作品だと自分の中で位置付けたのである。絶賛一色ではないだろうな、と思ってネットを見ると絶賛の嵐と言ってもいいほどの絶賛、絶賛、絶賛。正直、監督である樋口真嗣の前作『進撃の巨人 ATTCK ON TITAN』を見る限り「俺は良さを分かってんだよな~」枠になると思っていた。その枠にならなかったのは総監督である庵野秀明と組んだこと、くらいしか今は判断できる材料が無い。そこまで絶賛するほどの作品か?と思い3回目を観ると、改めて提示しているテーマも大変健全である。だがちょっと待て、『シン・ゴジラ』には足りていないものがあるぞ!と思いそれがこの記事のタイトルになった。1回目の鑑賞時に思った「う~ん」も、「足りていない」からなのだ。正直人によってはただの難癖、と思うかもしれないが……

 

 足りないもの、タイトルではあえて製作者のイジワルと書いたが――要は「人死に」である。何を言ってるんだ、ちゃんとゴジラによって人が死ぬ描写はちゃんとあっただろう、と思う人もいるかもしれない。そーです、確かにありました。一番印象的と思われるのは首相一行が乗っていたヘリがゴジラの熱線で撃墜されるシーンか。普通の怪獣映画ならここに首相一行のカット、もしくは視点のカットを入れるだろうに入っていないのである。ここが一番象徴的で『シン・ゴジラ』は意図的に明確な「人死に」を見せていないのである。唐突にヘリが撃墜されることによる驚きを狙っているんじゃないの?いや、他にも明確な「人死に」の描写を避けているシーンがあるのだ。序盤に津波から一人逃げる人物のカットがあるのだが、ここも津波に飲まれるところまでは見せていない。それは被災者への配慮が……いやいや1954年の初代『ゴジラ』には配慮も遠慮もない。そこが魅力であり名作だと言われる要因の一つなのではないか?怪獣映画の「人死に」は怪獣の脅威の描写であるのと同時に制作者のイジワルでもあると思っている。『ガメラ3』のメイキングである『GAMERA1999』(これも総監督が庵野秀明)で樋口真嗣ガメラとギャオスの闘いにより渋谷で吹き飛ぶ人々を見てこう言っている。「死ね!ゴミ共死ね死ね!」怪獣映画の客層のメインターゲットはあくまで子供である。にも関わらず「人死に」の描写を(時には過剰に)入れるのはイジワルと言えるのではないか。そのイジワルを極めているのが金子修介の怪獣映画群だろう(『ガメラ 大怪獣空中決戦』、『ガメラ2』、『ガメラ3』、『ゴジラモスラキングギドラ 大怪獣総攻撃』)。怪獣の被害にあい死んでしまう人々の中には監督の趣味で殺されたんだろうな、と思われる人種もいるくらいである。金子怪獣映画の信者とまで言えるような自分にとって『シン・ゴジラ』は物足りないのだ。初代『ゴジラ』はゴジラによって被害を被る側の恐怖と、ゴジラの視点で物を人を壊す快感を両方とも味わえるよう作られている(と思っている)。『シン・ゴジラ』はゴジラ視点での「壊す」快感に乏しいのではないか?また被害を被る側にしても「人死に」がそこまで描かれないので、脅威があまり感じられないのだ(それをゴジラの造形で補っているとも言える)。前述したヘリは撃墜後、市街に墜落しそれもまた人々に被害をもたらすはずである。『GMK』は墜落したヘリの顛末も容赦なく写していた。初代『ゴジラ』をリスペクトしたと公言するなら容赦のない「人死に」描写は絶対に必要だったはずである。

『GMK』より。墜落した防衛軍のヘリにより民家が……

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初代『ゴジラ』より。ゴジラの熱線を直に浴びる人々。

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 「人死に」を明確に見せているシーンもある。ゴジラ第二形態がアパートによじ登り、中に残っている親子が逆さまに落下するシーンは容赦がないと思わされた。タバ作戦で橋の下敷きになる戦車の中にいる操縦士を見せるのも同様である。このタッチが全編を貫いていれば……とどうしても思ってしまう。この位では足りないのだ。「ゴミ共死ね死ね!」と言うような樋口真嗣特技監督ならもっと容赦のないシーンを……と漏らしてしまうのはそこまでおかしいことだろうか。「『ガメラ3』の渋谷」という怪獣による「人死に」シークエンスの決定版を作ったのだから、ゴジラでもあのような地獄絵図が観たかったのだ。以下ここのシーンでこういう画を観たかった!というのを挙げてみる。

ゴジラVSキングギドラ』より。土屋嘉男演じる新堂会長にゴジラは容赦なく熱線を吐く。

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  • 熱戦で直接被害にあう人々。どのような形にせよ絶対やるべきだったと思う。
  • ヤシオリ作戦で熱線の直撃により撃墜される米軍ヘリの顛末。これを写せばもっと緊迫感が出たのではないか。

 映画評論家の町山智浩は「怪獣が街を蹂躙している時に「いけ!もっとやれ!」と思わない人は怪獣映画好きにならない」というような趣旨の事を語っている。人に話せないような破壊願望を満たす、といった面も怪獣映画にはあるのだ。自分にとっての怪獣映画は「物ブッ壊して人ブッ殺してナンボ」だと『シン・ゴジラ』で気付かされたのである(我ながら物騒過ぎるが)。結局は「自分の観たいシーンがないから文句を言っている」だけか。結論はこうである。ゴジラ映画がまた作られるとしたら是非「監督・金子修介特技監督樋口真嗣」で!