ワイルドサイドへの執着

童子の時は語ることも童子のごとく、思ふことも童子の如く、論ずることも童子の如くなりしが、人と成りては童子のことを棄てたり

『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』――もしかしたら『エンドゲーム』が日本で作られない理由なのかも知れない

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 く考えれば「お前達の平成って……醜くないか?」も変な台詞だ。元号である平成の歴史を指して醜いとする言説はニュースや週刊誌で評論家等が語るならまだ理解できるが、実際に本作『Over Quartzer』で発するのは子供向け特撮ヒーロー映画のラスボスなのである。

この異様さ、平成12年『仮面ライダークウガ』から平成30年『仮面ライダージオウ』までの「仮面ライダー」シリーズをファンではなく公式自ら「平成仮面ライダー」としてブランド化する事により生まれた、所謂「春映画」に見られるような奇形ガラパゴス的露悪すら垣間見える興行の結果行き着いた、一周回って普遍的な映画としての地力を得て、タコ足配線の如く絡まりまくった文脈によってのみ成し得る希有な傑作であるのは疑いようがない。平成を我が物顔で使用しているが、上記の通り平成仮面ライダー第一作とされる『クウガ』は平成12年放送開始であり、何も平成1年からスタートした訳ではないのである。平成12年以前の歴史を無視して「平成仮面ライダー=平成」として捏造しているのだ。その言わば「平成の私物化」がキモとなる。


 通常の映画は2時間程度で物語を完結するようにしなければならない。しかしどれだけ頑張っても時間の限度には逆らえず、語れる物語のキャパには当然限界がある。だがTVシリーズの続編だったり完結編だったりする「劇場版」では既に十分下地があり、且つ観客にも共通認識が浸透しているので、より深度の物語を紡ぐことが可能になるのだ。一見お断りのファンアイテムとして映画ファンには相手にされない部類でもあるが、この形態でしか語れない物語、成立しない映画というのも確かに存在している。本作までに積み上げられた平成ライダーの作品群(メディアミックスまで含めた)は年月によって厚い層が形成されており、その膨大な質量の前には映画一本で語れる物語などどう足掻いても太刀打ち出来ないだろう。


 導入はソウゴ、ゲイツツクヨミ、ウォズのレギュラーメンバーがクジゴジ堂にいて、おじさんの何気ない一言から事件が始まる。ゲストキャラ、オリジナルの敵、そしてタイムマジーンでタイムスリップして戦国時代へ……という「いつものやつ」感、デジャブ。そこで唐突にウォズが「画面の向こうにいる人が混乱する」という第四の壁を意識した発言をするが、この時点で後半へのネタ振りが始まっているのだ。この時代劇パートは「自分達が知っている過去の歴史は所詮伝聞でしかない、歴史はあくまで人の手によって作られていく」テーマを提示するのも去る事ながら、強固に画面のこちら側、観客も巻き込んだメタの二重構造になっており、鑑賞中頭によぎる「なーんだ完結編を謳っておいていつもと同じじゃん」は当然「醜くないか?」への布石になっている。マンネリズムによる既視感も観客へのクエスチョンとして機能しているのだ。そして後半、ウォズの裏切りによって曰く「歴史の管理者」クォーツァーが登場する。「平成ライダーの歴史がデコボコだから平成をリセットする」恐るべき拡大解釈によって平成ライダーに向ける観客、もしくは作り手の暗い意識を投影した代弁者が常盤SOUGOなのだ。空中に「平成吸い取りワームホール」も現れこれまでに無かった、いやこれまでも無いだろうラスボスの動機、展開にあ然とする他はない。投獄されたソウゴを叱咤激励する仮面ノリダーの登場によって、「仮面ライダージオウ」という番組内における平成ライダーの扱いと我々の現実における平成ライダーが完全に混同されるに至る。SOUGOらに圧倒されるソウゴだったが、咄嗟に自ら王になりたいと願った過去を思い出し、オーマジオウの助言も得て遂にオーマフォームに変身する。偽の王だったとしても自分の思いは間違っていない、自らの道を行くと決意するのは上記のテーマの重層だ。ウォズも規定された観念を断ち切り、逢魔降誕歴を破り捨て観客に向かってナビゲーターの役割を明かし、それを放棄。「一冊の本に収まらない程に平成ライダーの歴史は豊潤である」の言葉通り、SOUGOがデコボコと称する平成ライダー達が次元も媒体も超えて暴れ回り、バイオライダーの力を使って巨大化したSOUGOは「何故だ!?」と叫ぶ。それに対するソウゴの解答は「皆瞬間瞬間を必死に生きているんだ!バラバラで当たり前だ!それを滅茶苦茶とか言うな!」拡大解釈して平成ライダーと平成を等価にする事によって、現実に平成を生きる我々の肯定、激励とも等価となる。原点である改造人間としての出自をも彷彿とさせ、多様性を否定しない。唐突にパネルのようなものを持ち出したSOUGOに20作品記念ロゴに合わせて歴代平成ライダーが怒涛の大連続ライダーキック、それに併せて歴代のロゴも出現するが、ロゴも含めて平成ライダーである、という事だ。パッケージの字体がバラバラなのが平成ライダーであり、それが瞬間瞬間を必死に生きる事。パッケージでしかないロゴすら映像の一部に取り込み、ましてや意味を持たせるのは正に離れ業としか言いようがない。戦いを終えたソウゴにクォーツァーらが再度意思を問うが「人生が綺麗な訳がないじゃん、本じゃないんだから」という解答には心底胸を打たれた。平成ライダーがデコボコの歴史であるのと同時に平成の歴史もまたデコボコであった。長大なTVシリーズと不可分である劇場版だからこその重みであり、奇形的だからこそ成立している形。同じく今年公開されたこれも傑作『町田くんの世界』では池松壮亮演じるライターが「平成はロクな時代ではなかった」とオウム、震災、酒鬼薔薇といった実在の事件を指して述懐するが、本作ではそれが平成仮面ライダーなのだ。両作とも投げかける現実に生きる我々へのメッセージは、フィクションでしか成し得ない強固で力強いものだ。巷では平成最後をバーゲンセールし、これまでの平成とこれからの令和を憂う動きが活発したように見えるが、実際にこれ程の力強いメッセージを投げかけてくれた識者等がいると言うのか。自分はそうは思えない。小難しい顔なんかしなくてもそのメッセージをくれたのは、あろうことか良識のある大人からは笑われる子供向けのヒーロー映画だ。フィクションの勝利である。これだから自分は来週も仮面ライダーを見るだろうし、フィクションを摂取してくのである。決して無駄なんかではないのだ。


 SOUGOを倒したあと、偽史を生きていた(という解釈でいいのだろうか?)ゲイツツクヨミは消滅する。ウォズも死んだ。なのに訳もなくいつも通りにクジゴジ堂に三人は現れる。問うゲイツにウォズは「小説は現実よりも奇なり」。この開き直りは、いや全編通して開き直りの露悪であり、一回しか使えない大技のような今作ではある。しかしだからこそ本なんかじゃあ人生は測れやしないというテーマを提示してみせている。最後のソウゴの台詞は「未来は誰にもわからない。瞬間瞬間を生きていくんだ」。本作の事前知識として、正直ジオウTVシリーズ本編は押さえなくてもいいと思われる。「平成の仮面ライダーって色々あって毀誉褒貶激しいんだよね」さえ知っていれば問題ないのではないか。何故なら平成を生きた我々まで射程に捉えており、誰が見ても響く不変性を持った物語であるからに他ならない。


 よく「何故日本ではアベンジャーズのように予算を掛けて大人も観るヒーロー映画が作れないのか」と議論になるが、それは和製ヒーローの諸々を取り巻くガラパゴス性にあると考えていた。仮面ライダーだけが日本のヒーローではないし、プロデューサーである白倉伸一郎の山師的な気質にも起因しているだろうが、今最も国内でネームバリューのある日本のヒーローは仮面ライダーではないだろうか。そしてそのネームバリューのある和製ヒーロー映画の最新作がガラパゴスの極致みたいな本作だ。そう考えるとなんだ、ガラパゴスでもいいじゃないか、格好つけなくてもいいじゃないかと少しは思っても罰は当たるまい。