ワイルドサイドへの執着

童子の時は語ることも童子のごとく、思ふことも童子の如く、論ずることも童子の如くなりしが、人と成りては童子のことを棄てたり

『ガス人間第一号』――アウトランドスの恋

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 く「恋は盲目」などと言われたりするが、実際にその通りに目が見えなくなるとしたら困ったものである。この場合の「盲目」というのは「自分でも制御できない感情に振り回されて周りに気を配れなくなる」というような意味だと思われるが、恋愛というのは無条件に素晴らしいもので尊ばれるものとして捉えられがちである、が本質として危険なものであるという気付きなのではないか。

抑えきれない自我による視野狭窄、と書けば自己中心的な危ない印象を受けるが、結局は肯定的に見るか否定的に見るかの違いでしかない。相手に気持ちが伝わらず一方通行で、しかも拒否されていると知りながらも付きまとったらストーカー扱いされてしまう。誤魔化されているように見えるが、恋愛というのは危険な感情であり行為だ。行き着くところまでいけば殺人に及んでまでいよいよ人間性が剥奪されていく場合だってある。つまるところ『ガス人間第一号』とは本当に人間ではなくなってしまった話なのだった。


 ガス人間第一号になった水野という男は屈折した人物である。貧乏で大学に行けず、高卒で自衛隊に入ろうとしたが体格が貧弱なために検査にはねられた。仕方なく八百屋の店員よりマシだという理由で図書館に勤めている。「高校を出て大学に行けない人間は何をしたらいいのか」という独白でもわかる通り、日々を鬱々と過ごしている。その生活は怪しい科学者にアルバイトだと言い寄られて承認してしまった人体実験で終わりを告げる。かくしてガス人間となった彼は何を思ったのか、「何でも出来てしまう」身にも関わらず行き着いたのは銀行強盗などをして金を作り、ある女性にひたすら援助するというあるいはせせこましく見える犯罪行為だった。彼女の気持ちに目もくれずただひたすらに殺人も厭わず尽くす彼の姿は殆ど狂気、いやまさしく非人間的なそれだ。ただ彼は見つけてしまっただけだ。これまでの無力感に苛まれる人生を帳消しにするほどの生きる意味を。人並み外れた美貌を持つ彼女に恋をした、ただそれだけである。では翻って彼女はどうだったのか?一方的な感情をぶつけられて辟易するだけの普通人だったのだろうか?否、彼女、藤千代もまた日本舞踊の家元という重い重圧に加えてなおかつ没落しかかっているという、そういう人間だ。彼女の高慢で我を通す振る舞いには、何か痛いものを感じさせる。恐らくは世間の汚い部分を見続けてきたのだろう、という印象がある。その彼女は果たして水野の求愛を受け入れるのか、そうでないのか終始曖昧な態度なのだ。彼と彼女の関係は舞踊が登場する設定上画面に現れる舞台が示すように、見る側と見られる側の関係性だ。水野はただ尽くして彼女の姿を見続けるし、藤千代はそれに答えるのか答えないのか舞踊を通して自らの美を誇示する。それが端的に示されるのがクライマックスである劇場での公演だ。カメラは客席で真っ直ぐに舞台を見つめ続ける水野を映し、切り返して舞台で舞う藤千代を映す。乱れるように鳴り続ける鼓の音にも駆けつけた野次馬とも隔絶されたような、二人だけの世界。そこには何かエロティシズムを感じさせる。水野の愛を「受け入れるしかない」と諦観するような藤千代の舞う動きは何か加虐と被虐の倒錯した愛のようなものが浮かび上がってくる。そう、二人はどこかおかしくて愛の形もグロテスクに見えるのだ。屈折した自我を持ちガス人間となった非人間そのものの水野と、まるで人知を超越したような美貌を持つ藤千代。二人とも世界との関係に「軋み」を抱えた人間なのだ。


 しかしのそのおかしさ、異常性を世間は決して看過してはくれない。彼らを追い詰める警察にもまた論理がある。特異なのが作劇の構成だ。初めは刑事と恋人である記者を通してそのままゴシップ的にガス人間事件を追っていくのだが、次第に重点がガス人間である水野の悲哀へと移行していくのである。結果、警察とガス人間側の両方に感情移入したまま観客は行く末を見守ることになる。一面からガス人間に思い入れを許さない巧みさがある。警察が「市民の安全」を優先するのも理解出来れば、ガス人間の想いも完遂させてあげてほしいとも思わせる引き裂かれるような感情の喚起。このシニカリズムは同じく監督・本多猪四郎、脚本・木村武による『空の大怪獣ラドン』『フランケンシュタイン対地底怪獣』と共通している。公演に勇んで駆けつけた野次馬が「天地人これを許さず!」と参上してガス人間を糾弾しにかかる。世間の連中は二人を理解もしていなければ危険視して、隙あらば見物するような扱いしかしない。連中を退治した後に誰も居なくなった劇場で舞いを見届け、完遂した後に二人は抱擁する。「負けるもんか」と宣戦布告のように言う水野を抱きとめる藤千代は自ら警察が放ったガスを引火させた。世界から追いやられて遠く遠く離れた僻地のような場所で命を絶った二人はようやく安息の地を見つけたのかも知れない。


 ラストシーン、劇場から這い出て来るガス人間を延々と映し、死体を化すのを見届けさせるのもまた容赦がない。その上に花輪が落下するのは悲運を辿った悲しい男への献花にしか見えないのだった。徹底したシニカルな視点と同時に寄りそうような憐憫をも獲得している。傑作でしょう。