ワイルドサイドへの執着

童子の時は語ることも童子のごとく、思ふことも童子の如く、論ずることも童子の如くなりしが、人と成りては童子のことを棄てたり

『ANNA/アナ』――美少女ガンアクションの贖罪

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長く美しい脚をエロティックに披露してくれ、『映画は女(エロス)と拳銃(タナトス)』を地で行ける。
――石井隆『黒の天使』Blu-ray BOX 特製ブックレット


 と銃という組み合わせ。それはある意味で男の願望を最も端的に具象化したものと言ってもいい。綺麗で色っぽい女性が走ったり傷ついたりするのは否応なく官能的な匂いを纏う。銃でバンバン撃つのは言うまでもなくミもフタもない破壊衝動の代弁だ。

男根のメタファーなどとマユツバ臭い言い回しをするまでもなく、女と銃からは男の明け透けな欲望の投影が全く丸見えになっている。例えるならばカツカレーみたいなもんである。好物どっちも乗せれば二倍で美味い!という……。ならば対象を妙齢の女性ではない――成熟した人格を未だ持ち得ていない「少女」ならばどうなるのか。これは大変な事にならざるを得ない。程度の差はあれ揺らぎのない女ではなく未発達の少女が人間を引き金一つで簡単に殺傷出来る武器を手にする。殊更エロティックになるのは明白だ。心身共に未発達故の揺らぎと銃という質量的に重く、純然たる暴力装置コントラスト。頼りなく、細い体の手中に収まる銃は少女にはまだ扱いきれず手に余る。その姿はあわや暴発の可能性を十全に孕んでいる。危なっかしいのだ。銃と女以上に銃と少女というモチーフは魅力的に映る。しかし、当たり前に、より男性的、オタク的、ロリコン的な無責任の欲望を一手に集中させたような様相を呈す。このオタク的欲望が産み落とした業、業の産物たるだらしのなさ過ぎるモチーフを生み出しやがったのは一体誰なのだろう。どうやら調べると一人の映画監督に行き付く。リュック・ベッソン


 90年代末から00年代初頭にかけて制作された二つのアニメがある。『A KITE』と『ノワール』だ。どちらも「銃と少女」を題材にした作品である。どちらも所謂『エヴァ』以降のより先鋭化した視聴層に向けてハードコアな尖った作風を意図して制作された。内容としては――『ノワール』は初回しか鑑賞していないが、けれどもあえて言ってしまえば――両者共に男性的な社会構造から抜け出す為に少女が銃を使って男共をバッタバッタと撃ち殺していく、といったものだ。ここに女性の自立的な社会的意義を感じる場合もあるだろう。だが、実際として男共に恥辱の限りを尽くされる少女の姿をサービスたっぷりに映したり、銃撃戦の最中にパンチラしたりといったあくまでも男性的な欲求に答えた作品だということを留意しておく必要がある。そして、だらしない男のオタクの欲望を成就する為に生み出された「銃と少女」ジャンルの元凶的立ち位置にいるのがリュック・ベッソンらしいのである。らしい、というのは今作が筆者にとっての初・リュック・ベッソンなのであって、立ち聞き程度の文脈しか把握していないためだ。『レオン』がアイコン的な知名度を獲得しているのは知っている。映画をあまり観ない人でも知っている名作中の名作。物語は筋を一見しただけで分かるが、オシャレの代名詞である「フランス映画」という看板も相まってオタク的、あるいはロリコン的な観客への希求が強い作品であるという思い込みは以前からあった。更に映画好きからの「リュック・ベッソンはダメ」的な意見を見るにつけ簡単に名作を生み出した名監督としてラベリングされるような人ではないのだろうと推測する。あるいは近年のフィルモグラフィも興行的批評的に芳しくないらしいのだ。そして『ANNA/アナ』である。何か出世作ニキータ』の焼き直しだとか何とか。曖昧に過ぎる把握ながらここに何らかのストーリーを夢想せずにはいられない。起死回生、転回点だとかそういう位置付けになるのではないか、と。そのように考えながら観たのだが、妄想上のストーリーながら筆者にはどう考えても何時まで経ってもガキっぽい美少女ガンアクションに固執するオタクの贖罪にしか見えなかったのだ。あるいは開き直り、でもいい。少なくとも宣伝に踊るような型通りの「スタイリッシュアクション」では更々ない。極めて自己言及的な性質を持つ。


 今作でまず目に付くのは所謂「時系列シャッフル」と呼ばれるような手法だ。と言っても、パズル的に観客に少しずつ情報を提供して質の高いミステリーを演出する、といったような上等なものでは全くない。まずシークエンスを一通り進行させておいて、歯抜けした情報を後出し的に節操無く出していくという方法を取っている。一例として挙げると何ら裏社会と関係を持たないような少女(アナ)が前触れもなく銃で男を暗殺する。そしてその理由を「~年前」とテロップを出して過去に何があったのかを示していく、といったものだ。このような手法は別に珍しい訳でも、特別「下手」とされるような演出でもないと思うのだが、今作における問題はこれを全編四六時中繰り返す点にある。するとどうなるのか。何回も何回も時系列が逆行して説明されることにより何かメタ的な、自己言及的な性質を生むことになるのだ。嘘、ハッタリが何度も繰り返されることによって「銃と少女」あるいはリュック・ベッソン的なそれの劇中劇のようにしか見えなくなる。更に終盤になると、リアリティを厭わない姿勢によってどんどん抽象化された劇のようになっていく。そしてその中心にいるのが主人公「少女」アナであり、今作の自己言及性を明白なものにしている。女と銃、あるいは少女と銃ジャンルには大別して二種類のパターンがある。一つは故意に銃を手に取る場合、もう一つはやむなく銃を手に取ってしまう場合だ。上記の『A KITE』を例に挙げるまでもなく銃と少女は、否応なく男性目線の嗜虐性が加味される。そこにある少女の属性は被害者だということだ。能動的にではなく、運命に翻弄された挙句殺人に手を染める「可哀想」な存在なのである。翻ってアナも質の悪い男に捕まった堕落の果てに組織に加入して暗殺者になるという同じ定石を辿っているように見えるのだ。しかし、物語が進むにつれて明かされていくのは彼女が敵対する組織両方を手玉に取って己が道を突き進んでいく様なのである。片方の組織の男を肉欲で誘惑し、かたやもう片方の組織の男にもする。マッチポンプで対立を煽っていくのだ。ミッションの過程で知り合った同性愛の嗜好を持つであろう純粋なパートナーすらもあっさりと切り捨てていく。このような彼女の姿は到底被害者でも同情を誘う一辺倒のものでもない。ずばり「悪女」なのだ。ファム・ファタールなのである。今作の物語全体の手綱を握る「運命の女」なのである。アナは悪いのだ。男を誘惑する悪い少女なのである。この性格が最後に明かされて映画は終わるのだがつまりはこういう事である。何故いつまでも美少女ガンアクションに固執してしまうのか? それは美少女が悪いからだ。美少女があんまり魅力的でファム・ファタールであるからこそなのだ、と。今作は「スタイリッシュアクション」でも「昨今的な女性の自立」を謳った作品でもなく、「オタクの開き直り」だったのだ。


 ここには石井隆作品にあるようなあくまでもリアリズムに基づく女性の人格を尊重したものはない。どこまでも男性の、オタクの、ロリコンの、もっと言えばオヤジの「ぐへへ」的な視点だ。時代に逆行するものだ。しかし、だ。しかし、一オタクとして、銃と少女を愛好する身からすれば例え倫理にもとるものであっても清々しさを覚えずにはいられなかった。一人の映画作家のだらしがなさ過ぎる性癖の告白。そのデタラメな強度は一概に否定出来たものではないし、自分は絶対に出来ない。