ワイルドサイドへの執着

童子の時は語ることも童子のごとく、思ふことも童子の如く、論ずることも童子の如くなりしが、人と成りては童子のことを棄てたり

『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』――世界は二人の為にある

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「劇場版」とタイトルに付くのは当然TVシリーズからの続編だからだ。TVシリーズからの積み重ねの先にある決算としての物語であって、予習して併せて観るのが当たり前だろう。

しかし、映画というのは基本的にTVと違って安くない料金を払って観るメディアである都合上や作品が更に多くの目に触れる露出の問題もあって、ある程度「一見さん」でも楽しめるようにセッティングするのが普通だと思われる。続編として見る従来のファンと単体の独立した作品として観る門外漢とでは視点の差異は発生せざるを得ない。劇場版というものが映画ファンから馬鹿にされたような見方をされる理由の一つは単なるファンサービスに終始して一本の劇映画として機能していない場合が無きにしも非ずだからだろう。自分がTVシリーズ未見にも関わらず鑑賞したのはあくまでも単体の映画として気になったからである。そのような文脈を切り離した独立した作品として本作を語ってみたい。


 主人公であるヴァイオレット・エヴァーガーデンという女性は代筆業をしている。代筆業というのは人から依頼を受けて応じた内容の手紙を書付け、指定した人に代わりに送る純然たるサービス業だ。わざわざ依頼してまで手紙を届けたい人間の想いの強さと接しながら仕事である関係上、事務的に想いを媒介する。彼女は自らの想いを押し殺しながら仕事をしている。それは亡くなった命の恩人であり、上官でもあった少佐への想いである。他人の想いと反比例するかのように自分の心を封じ込めて仕事に徹するその姿は杓子定規な対応とも相まって、報われてほしいと感じさせる。自分の言葉を持たない木霊のようなものだからだ。ファーストショットから示されるように本作はフレームを使った画面構成が多用される。彼女はやはりフレームの中にいる。死に分かれの記憶を背負ったままの彼女は孤独だと語る。同時に多用されるのが時空間の隔たりをシームレスに繋ぐ編集だ。どれだけ時間と距離が離れていてもどこかで繋がっている。それは彼女が出す手紙の越境性と似ている。時間と距離が曖昧になった画面の中では生者も死者もシームレスな存在なのではないか。観客にそう予感させた頃に闇より知らせがやって来る。果たしてそれは死者からの手紙であった。


 死者からの手紙――死んだはずの少佐が残した手紙に導かれるままにヴァイオレットは僻地のような孤島に赴く。同行した仕事場の社長の配慮により、一旦少佐の意思の如何を確かめるために距離を置く。社長が一人相対した少佐の意思は逢いたくない、逢えないというものであった。それを伝え聞いたヴァイオレットは愕然とする。しかし逸る気持ちは抑えきれない。生きているのだから。直接逢わなければ。制止も聞かずに飛び出す彼女は村の仕切りであろう木造の扉を跨ぐ。扉の開閉は事態の波乱を予感させる。文字通り何かを開けてしまうことになる。その時同時に空は曇天に変わるのだ。まるでその場にいる人々の気持ちを代弁するように。世界の見え方が変わるように。更に土砂降りの様相を見せる雨の中で遂にヴァイオレットと少佐は再開する。ただし直接ではなく、家屋の壁を隔てて。当然口論のようになる。何故、逢えないのか、逢いたいのに逢えないのか、顔を見ることが出来ないのか。正体は少佐の罪悪感。一度死んだ人間に何が出来ようという自制。それでもやはり彼女は納得出来ない。更に勢いを増す雨。たまらず耐えかねて走り出すヴァイオレット。社長の怒声が響く――「馬鹿野郎!」と。失意の中、豪雨の中を泥だらけで走る、走る、走る。


 この構図は余りにもベタだ。ありきたりだ。古典的だ。色々な形容の仕方はあるが、まず思うのは荒唐無稽である。個人の心情によって気候の変動など起こり得るはずがないからだ。それに抑えきれない気持ちからひたすらに走るというのも何か、童話のような素朴さすらある。現実の人間の動きはこんなに単純化されたものでもないだろう。しかし、ふと思うのである。あれ――映画ってこういうものじゃなかったか、と。事象を単純化し、誇張し、有り得ない出来事をこうなるはず、こうなってほしいという希望の元に綴る。恋愛感情の機敏如きで雨が降るものか。しかし、当人にとって世界はそのように心に雨が降るように――現実にも雨が降って曇り空がかかって見えることだろう。いかにも馬鹿馬鹿しいが、だからこそせめて映画くらいは心に陰が差したら実際に雨が降って欲しい。個人の感情が世界の有り様を一変させる様を、劇的な世界をドラマティックに、感動的に分かりやすく見せてほしい。このような企みの元、もう一つの手紙による越境の愛の物語が語られる。自分の価値を再確認したヴァイオレットはやはり少佐とは決別することを心に決めるのだった。島を離れ、船に乗ってどんどん距離が離れていく。でも、何か聞こえる。自分を呼ぶ声が。届くはずの無い声が。二度と聞こえるはずがないと思っていた声が。結局、少佐は彼女に会うため駆け抜ける。手紙を読んでしまったからだ。彼女の思いの丈を直截に知ってしまったのだ。ヴァイオレットも駆ける。なりふり構わず海に飛び込む。溺れることはない。何故ならこの世界は想いが物理的現象を超えるものだから。まるで手紙のように時空間を通り抜けて越境するのと同じように。駆けて、駆けて、浜辺で二人はとうとう顔を突き合わせて本当に出逢う。言葉を直に伝えて笑顔を涙を顔に浮かべて。空は夕方にも関わらず何故か光が差している。点から伸びる光の線。押し寄せる波。この二人の逢瀬の画面は殆ど神話的な荘厳さすら纏うことになる。有り得るはずもない二人の出会いを有り得ない光景で世界そのものが祝福する。何故ならこれは映画なのだった。


 恋をすると世界が違って見える。ありふれた陳腐な美辞麗句だ。聞いた瞬間唾を吐きたくなるような安易極まるおべんちゃらだ。しかし、だが本作はそのような陳腐を馬鹿馬鹿しいとすら言える古典的仕様で持って堂々と語って見せる。恋をすると世界が違って見える。そんなホラを信じさせてくれる。二次元の絵であるアニメーションによってさながら説話のように。昔から伝え聞く物語のように普遍性を持たせて。単体の独立した一個の作品として恋愛映画の王道を恥ずかし気も無く「走って」みせる傑作である。ラスト、指切りで小指を絡ませる二人の姿にはただ単に男女であるという情愛を、匂い立つエロスを感じさせる。その点もやはり王道だろう。