ワイルドサイドへの執着

童子の時は語ることも童子のごとく、思ふことも童子の如く、論ずることも童子の如くなりしが、人と成りては童子のことを棄てたり

「百合映画」完全ガイド――「百合」という宗教の場

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 實重彦から始まる映画ガイド、ということだ。本書は百合を発見できる映画を古今東西300本以上紹介していて、日本→海外→アニメの順でリストアップされているのだが、その1本目、日本編である1933年の『港の日本娘』紹介文の出だしが「本作は江藤淳蓮實重彦の~」なのだ。

普通「百合」という観念が当てはまるものは、それなりに歴史があるのは理解したうえでもここ2~30年辺りの理解がおおむね一般的なのではないか。そこには昔からあるもの特有の重苦しさ―――重ねて言うが歴史がある事実は前提としても―――は感じられない。白黒の映像から遠ざかったある意味でカジュアルな00年代以降的な様相が何となく連想される。1933年である。戦前。当然白黒。二次元で萌え萌えなオタク的カジュアルさとは結び付きそうもない代物だ。この昭和で戦前で白黒なものにいかにもオタクなカップリング妄想による観念をぶつける姿勢から見えて来るものは何か。すなわち「百合だと思ったらいつの時代だろーがどこの国だろーと百合なんだよ」に他ならない。それを宣言するのが冒頭しょっぱなから蓮實重彦である。志村貴子女史による二次元オタク的百合の図による表紙を見て「おーこれは」と思い、手に取ったならば間違いなく困惑するのではないか。「この爺さん誰だよ」と。知らねえよ。普通二次元オタク的な人種はこういう権威的な匂いがするような人物は大の苦手であるはずだし、言わずもがな評論家だって大嫌いである。カマされる蓮實重彦ぶっぱからは生半可な態度を木っ端みじんにする妥協なき姿勢が伺えるのだ。この本は色々な意味で間違いなく「ガチ」である。それにシネフィルと称されるような一見二次元オタク的な性質とは全くそりが合わなそうな人達も実は百合と相性が良いらしいのだ。


 映画からはファッションの匂いがする。ただし洋画とアニメ限定で。何かオシャレな感じの雑誌とかそういう場で発動される「好きな映画」とかいう話題において邦画はほとんどの場合除外される。何故なら邦画には映画、というか洋画やアニメの持つオシャレで洗練されて格好が付くイメージとして脱臭されているからだ。無意識的に邦画といえば「くらーいジメッとした場所で何かを抱えた男女がボソボソ喋ったり怒鳴ったりしている図」を誰もが共有しているように思えてならない。そしてそれはある程度当たっている。ニッポンという国特有のどうたらとか日本人という民族がどうたら、日本人である自分が観ることから来る気恥ずかしさとか要因は色々あるかも知れないが、事実である。邦画はいつまでも垢抜けずにどこか鈍重で暗い。洋画やアニメが持つ異国でデザインされたファッショナブルな印象とはまるで対照的に、である。故にファッションの匂いを持つ場で援用されることはほとんど無い訳だが(そこ、単にアベレージが低いだけでは?とか言わない)本書はまるでその風潮を意に介さない。半端な映画紹介本がオール洋画、という絶望的な状況がザラにある中でなんと本書は三編のうち、アニメ編を差し置いて日本編、つまり邦画の紹介に紙幅を割いているのだ。しかも堂々と日活ロマンポルノまで載せている。ロマンポルノやピンク映画といった部類はファッション的な映画語りの場において最も忌避されるものであることは間違いない。洋画で外国人の俳優がアハーンウフーンだのやっていてもどこか様になっているので不思議だが、邦画の特にバリバリの昭和である日活ロマンポルノにおいてそのような様っぷりとは無縁である。パッケージの問題とはいえいかにも昭和な、オヤジなタイトル・センスの前に近年のファッション的な態度は白目を剥くか基地の外を見るような態度を余儀なくされる。しかし重ねて本書は差別をしない。ロマンポルノ第一作とされる『団地妻 昼下がりの情事』を撮った西村昭五郎の映画を、黒沢清のフィルモグラフィの中でタイトルの浮きっぷりが目立つ『神田川淫乱戦争』を、実写『デビルマン』の監督だというだけで一方的に叩かれまくる那須博之の『セーラー服 百合族』を『リズと青い鳥』や『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』といったアニメ作品と全く同列に(ライターは異なるが)語って見せる。百合の語源とも言われる『セーラー服 百合族』を実写『デビルマン』でいつまでも飽きずに遊び続ける手合いがどれだけ存在を認知し、鑑賞するまでに至ったというのだろうか。そのような浅薄の極みを一刀両断するが如くに本書はロマンポルノに、昭和に、百合を見出して語って見せることを恐れない、躊躇しない。恐らく本書の最大の功績はここにある。邦画を、ロマンポルノを、洋画やアニメと並列に語って見せたのだ。映画はどこまでも映画である。オシャレじゃないから格好が付かないからと言った俗物的理由で邦画を視界に映ることすら忌避する手合いとはいい加減縁を切るべきなのだ。無意識の視野狭窄に対する果敢な挑戦として本書は役に立つはずである。……しかし、とはいえ。改めて蓮實重彦を持ってくるとはどういうことなのか。やはりというべきかシネフィルとされる人種特有の権威臭さ、居丈高な態度がもれなくセットで付いてきてしまうのだ。ファッションやオシャレを散々糾弾した後に言うと矛盾しているように聞こえるが、オープン、薄さとはまた別の窮屈さがそこにはある。文脈の了承を事前に共用していると思っている、どころかむしろ当然のような態度から生まれる当人間でしか通用しないような符丁の連打、連打、連打。あろうことか邦画を差別しないことで風通しの良くなったはずの本書は従来のシネフィル的な一見お断りをそのまま受け継いでしまっている。何言ってるかようわからんのだ。アンタらの間では通用するかも知れんけれども。淀川長治が偉大でキネ旬より秘宝が売れているのは何故なのか。クローズドな言葉遊びに終始していて映画は本来万人に開かれている大前提を無視してしまっている。映画を紹介するなら薄さは論外としても濃すぎても駄目なのだ。何を、百合と看板を出す時点である程度クローズドな客層に向けられているんだからいいんでないかい。それはそうかも知れない。だが本書の百合を示す性質にもまた問題があるのだ。


「クソデカ感情」。この言葉が意味するものは何か。もの凄く大きい感情のことです、いいでしょうその通りでしょう、なら別に「クソデカ」と言う必要がどこにあると言うのか。スラングミームといったものに分類される言葉に常に付き纏うのは身内感だ。身内でのみ通用して簡略化し過激化し記号化されていった言葉によるコミュニケーションを見た時に発生する感情とは何なのか。そう、近寄りがたさだ。状態によっては気持ち悪さすら覚える。自分が理解の及ばないものを知った時のそれだ。特に「百合」を巡る言説が構成する言葉にはほとんど宗教的な熱気と近寄りがたさがある。身内でやっていれば楽しいかも知れないが本書は一般に流通する書籍なのだ。ここにもクローズドな濃すぎる態度によって薄さとは違う価値ある映画紹介の可能性を減じてしまっているのだ。その象徴としてインターネットで流通するスラング「クソデカ感情」をわざわざ紙面に起こす態度がある。


 更に本書は近年の作品で特に描かれる傾向があるセクシュアリティについて扱った作品についても触れている。百合、とは女性同士の関係性を指す。それは一見セクシュアリティとも親和性がある社会的性質も含んでいる、のかも知れない。ここに大きな問題がある、と自分は思っている。オタクのカップリング的欲求から導き出される百合とはどこまでも欲望に忠実な産物でしかないからだ。だから現実にある問題は無視される。皆美少女で若々しい。行くところまで行けば男性要素の排除すらある。ここに現実のどこまでも有り体な厳しさはどこにもない。現実にあるセクシュアリティの問題とは当然ルックスは多様だし年も取るし男だっている。この現状一筋縄ではいっていない現実に今確かにある問題を真摯に扱った映画の態度は賞賛されて然るべきだ。反してオタクが百合に対する態度はその意味で全く真摯ではない。自慰の為に漂白化されて汚い、見たくないものは見事抽出された世界。身勝手極まりないただ消費されるもの。それは現実を映しとったものなどではなくファンタジーに過ぎない。
だから女性の関係性という共通点だけで架空の百合と現実にあるセクシュアリティの混同はしてはならないと思う。あまつさえ消費の対象として見るなど最も唾棄すべき態度だ。本書が現実にあるセクシュアリティを扱った映画までも百合と称して扱うのは疑念を呈する。現実なんか無視して何でも下劣に享楽して受け取るのがオタクなんだよ、と言われればそうなのかも知れないが……


私たちにとって、「百合」は約束されたものではなくむしろ出発点だ。なんの変哲もなかった写真の中に霊を見つけてしまった途端に写真全体が「心霊写真」になってしまうときのような、それを見出してしまった瞬間を核として作品全体が再構築されていくような不気味な何かだ。
――本書「序文」P10


 どうやら百合は心霊写真と同義のようである。やっぱり宗教だ。不確かながらそれを盲目的に奉らざるを得ない人々の痴態だ。その最前線を目撃してしまう意味でも一読の価値はある。そして邦画を洋画と並列に扱った映画紹介本という点でもっと評価されるべき。最後に「これが入ってねーよ!」と抗議する意味で個人的マストの2作を紹介したい。


『GONIN2』
監督:石井隆/1996年/日本/107分 

 

 

「賭けない?1時間以内に雨が降ったら……」「おんなじ事考えてた」。男性目線からの逆説的な女性映画を作り続けている石井隆による百合。ブロマンスの意匠を見せた前作以上に様式性を遺憾なく発揮しており、緒方拳と同時に現れる鳩はまるでジョン・ウーのよう。社会から疎外されている女同士の視線が逢うことによって始動する関係性は、男に立ち向かう姿によって強感情になる。強盗に成功して街を闊歩し踊り狂う時間の多幸感。妻を奪われた夫による遺恨の様からある種、男から女への贖罪の物語になっている。そして最終的には魂の尊厳を問う領域にまで達する。銃を取る女と同時に家庭に帰還した女も見せる辺りバランス感覚も尋常ではない。ラストショットの啖呵を切った祈りの様な後ろ姿がいつまでも目に焼き付く。


ブギーポップは笑わない Boogiepop and Others』
監督:金田龍/2000年/日本/109分

 

 

 上遠野浩平による原作からして様々な百合を見出すことが出来るが、その実写化である本作には直接的に「レズカップル」が登場する。霧間凪と末間和子だ。不良少女同士という定番でもある紙木城直子との関係性は後退するが、変わりに×真面目な眼鏡っ子の風情になっている。凪によって付けられた指の傷にキスをしたり、首に見つけた傷痕を絆創膏で手当てする末真からはより湿っぽい感情が濃厚に浮かび上がっている。監督曰くヒッチコックオマージュの「眼」も「主観」のテーマと見事に合致を見せているし、実写でのみ可能な生身の役者の身体性を強調する「握手」の使い方も有効に機能している。何より原作刊行当時の空気感を2000年に製作することによって不可逆的に獲得しているのが最大の魅力だろう。数少ないライトノベル実写化の成功作。