ワイルドサイドへの執着

童子の時は語ることも童子のごとく、思ふことも童子の如く、論ずることも童子の如くなりしが、人と成りては童子のことを棄てたり

『ワンダーエッグ・プライオリティ』――少女たちの戦いに加担せよ

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「わかるかな、生まれてきた千のものたちは、生まれることができなかった兆のものたちの分も生きなくてはならない。それは、この世に存在しているすべてに掛けられた呪詛なんだ。君たちはそれから逃れることはできないんだよ」
「……ぞっとしない話だ」
――上遠野浩平ブギーポップウィキッド エンブリオ炎生』

 

 自分は、十四歳の少女ではない。実は、二十歳を過ぎた成人男性である。何も今更こんなことを確認しなくても、それは厳然とした事実だ。何よりここに書き散らしてある他の記事や、リンクしてあるTwitterを少しでも覗けば、誰にだって分かりそうなもんだ。

思考の流れはオタク野郎のどうしようもない欲望全開の汚れきった代物だし、それより何よりまず見た目が不細工だ。体中から体毛が生えてきてぞわぞわしているし、体臭だって所謂オヤジ臭的なものが漂ってきているのではないか。だがしかし、少女は違う。未だ中学校に通う年齢の十四歳は、違う。決定的に成人男性とは、似て非なる。思春期真っ盛りの不安定なお年頃だとか、高校受験で将来が大変よだとか言われるとしても、想像力を欠いた成人男性からすればとても輝かしいものに見える。展望煌めく未来に向かって道が開けている、例えようもない存在だ。故に、こんな木っ端のインターネットで駄文を連ねるオタク成人男性とは異なる生き物だ。断絶、どころの騒ぎではないのだ。その断絶を越境するものは一つしかない。フィクション、アニメ、つまり架空のお話だ。そこで描かれる少女たちは、当然のように崇高なまでにキラキラとカリカチュアされながらも、何故か自分にも理解可能な生き物だったのである。あっ、と気付くまでもなく、理由は架空の物語を作るに当たって、ましてやそれが商業作品として毎週放送されるアニメなら当たり前である「視聴者に感情移入を促す」という作為によるものだ。よって実際とは異なる。そうとは知りながらも、その様を見ながら毎回、自分は作中にいる少女たちに心底共感し、そして応援していた。そうか、俺は乙女だったのか。そういう“気付き”を与えてくれたアニメ、それが『ワンダーエッグ・プライオリティ』である。


 本作はまず、画面が綺麗だ。美麗なキャラクターデザインは主要となる少女たち以外の男性陣をも魅力的に映している。ひたすらに目立った作画の崩れがなく、整った一枚絵が繰り出される様はテレビシリーズとは思えないほどで、ほとんど劇場版クラスだ。対になる夢とも現実ともつかぬ「エッグ」の世界で跋扈するクリーチャー群はいかにも気持ち悪く、グロテスクで生理的嫌悪に訴えかけるようなデザインがなされている。この対比はそれら、つまり「現実の一要素が肥大化した化け物」と戦う少女たちの勇敢さ、悲壮さ、ヒロイックを効果的に立ち上がらせている。アニメーションなのだから、静止した画ではない。一枚絵、とは言ったがもちろん動きまくる。日常を綴るパートは実写的な落ち着いた、レイアウトを綿密に計算した奥行きのある画、戦いのパートでは二次元の嘘を盛り込んで平面に見せることも厭わない、メリハリの効いたケレン味を満載にして見せ切る。聞くところによると、どうやらスタッフは若手を中心に起用されているらしく、毎回若さ迸るパッションが、画面から所構わず充満しているのだ。他にもそれぞれバラバラな武器や小物に到るまできっちりデザインされており、画面のあらゆる要素が統合されながらも個性を放ってくる。要するに、アニメとしてとんでもない労力が割かれており、それが極めて高いレベルで一つの作品として結晶しているってことだ。そんな中で一番強調されるのは、年頃の少女の佇まい、しぐさ、肉体の存在感だ。これは終始一貫されており、そのフェティシズムの追及ぶりは、はっきりと変態的だと言って差支えが無い。こういう状況において、少女はどのように身体を動かすのか。このような感情の場合、少女はどのように表情を変えるのか。どうしても戦わざるを得ない場合、少女はどのように傷つくのか。それらを突き詰めた結果として見えてくるのは、所謂「キャッキャウフフ」であり、百合的なものを見出すのはいささかも困難ではない。このような変態的、もっと言えば少女愛的なものに加担しているのは画面は元より、やはり脚本の業が大きいと思われる。


 野島伸司の名前は流石に知っていたが、不勉強なのでこれまで携わった作品は見ていない。なにせ実写のテレビドラマが主戦場の人だ。しかし門外漢の自分にも特徴、つまり作家性というやつは感じとることが出来た。まず、描写される時系列や場所が曖昧なのだ。これは単に謎で引っ張っていく作劇だからという訳ではない。エッグに纏わる諸々も、謎は謎なままで構わない類の作りなのは明らかだ。全体として通常の作劇ならば発生する、「移動」や「経過」が少ないのである。言うならば美味しい箇所だけを点描していく方法を取っている。そうすることで謎を絶妙にボカすことが可能になるし、時間や場所に拘泥されない自由な作劇が可能になる。だが通常、そのような方法だと話運びもキャラクターの関係性も不明瞭な歯抜けの状態になってしまう。本作の脚本が優れているのはそこで、歯抜けにすることによって逆に想像の余地がある幅を作っているのだ。どこを描き、どこを描かないかの線引きを絶妙にすることで、繋がっていないものを繋がっているかのように見せているのだ。これは尋常な手腕ではない。そしてもう一つ際立つのが、台詞回しである。本作の主題である「悩みもがく少女たちの物語」を描く場合、リアリティを獲得するためには当然、現実にあるような言葉遣いが求められることになる。描かれる問題が現実に起こり得る問題ならば尚更だ。時に言い淀んだりするような実在感のある台詞をキャラクターに喋らせなければ、切実なものとして伝わってこない。しかし本作は堂々と芝居がかった、格好つけた台詞回しを多用してみせるのだ。恐らく年頃の少女たちはこのような会話をするであろうという(実際を知っているはずがない!)リアリティから要請されるものとは明らかに逸脱した言葉の選び方なのだ。例えば、川井リカという少女はある時「普段使いは期待してないよ」といった台詞を発する。実際に少女がこのような言葉遣いをするしないは別として、リアリティを優先するならば決して採用はしないだろう。更に、エッグ世界での戦闘になると少女たちはそれぞれ「トサカに来たぜ!」「一昨日おいで!」と決め台詞まで言ってしまうのだ。こうした言葉の選び方は、最早前時代的な部類なのであって、今現在における少女たちのリアルを描くことをある種放棄している。それは紛れもなくロマンティシズムから来るものだ。この姿勢はフィクションとしての強度の弱さやあるいは、恥ずかし気も無いロマンの開示といった辺りで疎んじられるものかも知れないが、自分としては大変心地よかった。結局虚構であることを担保させる安心感を生み出す原因になろうとも、虚構の台詞はこうなんだと主張する意思にやられたのである。ならばどこまでも空虚な絵空事なのかと思われそうなものだが、ここで勘違いして欲しくないのは、だからといってリアリティを損なっている訳でもないのだ。例えば少女たちがSNSを使って他愛のないお喋りをする様はまるでドキュメントのようだし(くどいようだが実際は知るべくもない)、各々が抱える問題も極めて切実な問題としてこちらの胸に迫って来るのだから。このロマンとリアリティを矛盾なく両立させるのは、少女へのフェチからなる切っ先鋭い業物でなければ不可能だろう。少女への変態的な一種身勝手で搾取的な視点と、もう一方では彼女らが抱える問題に対して全うに、誠実に取り組もうとする態度。そのような矛盾は本作の魅力であるが、結果的にもう一つの危うい側面も浮かび上がってくる。


 少女たちがどこまでも美しい存在なのに対して、敵となるクリーチャー群が醜く描かれる対比は前述した通りだ。問題は、クリーチャー――エッグ世界のボス的存在でワンダーキラーと呼ばれる――の醜さの表出が余りにも直截的なのだ。あからさまに男根を想起させる形状といった、少女たちの世界とは真逆の汚らしい、性を連想させるものが全面に出て来る。ワンダーキラーといった存在は、少女たちのトラウマが肥大化した化け物なのだから、そのような姿形なのは物語上の整合性がきちんとある。とはいえ、やはり必要以上に露悪的にデザインされている感が否めないのも事実だ。ここには倒錯した少女愛が垣間見える。少女には健気に頑張って欲しいが、同時にそれらが醜い現実によって汚される姿も見たい、という。考えすぎと思われるかも知れないが、他にも歪な少女愛からなる要素はいくつもある。本作は魔法少女ものと呼ばれるジャンルに分類することも可能だが、問題は少女が敵と戦うと何が発生するのかということにある。常に余裕の必勝であるはずはなく、劣勢に立たされる場合もままある訳だ。少女が敵に打ちのめされ、敗北する様を演出すると何が起こり得るか。魔法少女ものというのは幼児向けとされる作品が多いが(もちろん例外はある)、そうなると敗北のパターンにも限界がある。傷が付く、血が出るといった辺りが限度で、「人間は敗北するとどのような状態になるか」の肉体的描写はゾーニング的にもタブーがある訳だ。しかし、本作は違う。実際に人間が、否、少女が化け物と戦い、敗北し、打ちのめされると何が起こるのか。結局はこうだ。そう――嘔吐と失禁である。別にわざわざ嘔吐と失禁を描く必要は無い。嘔吐と失禁に値するダメージを演出すればそれで十分なのだから。そんなことは分かっている、それでも少女が嘔吐し、失禁している姿が見たいのだ、これは執念だ。まだまだ画面からは倒錯したものが見える。それは暗喩の使い方だ。アニメ、映画といった映像メディアの場合、語られる物語は何もテキストの脚本に限った話ではない。脚本レベルではない、すなわち画面にあらゆる細工を施すのが演出家の役割だ。実写と違ってアニメの場合、全てがコントロール可能とも言える画面の中で、無意味なものは登場し得ない。どんなものでも画面に描かれる限り、何かしらの意味がある。演出家はそこに賭けている。翻って本作にも様々な画面上の仕掛けが施してあるが、目を惹くのがやはり直截的な暗喩の使い方だ。主人公の一人である大戸アイの悩みの一つは、担任教師である沢木先生との関係にある。彼女にとって沢木先生は恐らく初恋の相手であり、シングルマザーである母親と付き合っている事実に思い悩む。つまり彼女にとっての性の目覚めと言える。その沢木先生との関係の進展を表す時に画面に登場するのが、ソーセージと牛乳となる。最早皆まで言う必要もないが、この暗喩はどう考えても大っぴらに過ぎ、過剰なのであって、変態性の発露の一環がここにもある。それらを包み込むのが全体を通して強調される「水」のイメージだ。あらゆるところで水が登場する。そのたゆたうイメージが担うのは、生と死の象徴だ。蠱惑的なようで、不穏なのである。本作が少女たちのキラキラした様子とは違ってどこか不穏なのは、制作者の少女に対する歪な感情がアンビバレントなまま出力されているからだ。少女の成長を描く真っ当なジュブナイルに見えて、裏ではえげつのない欲望が丸出しになっている。その相反するもののせめぎ合いがスリリングなのだ。物語内でその欲望を代任するのがエッグの創始者である二人、アカと裏アカとなる。終盤で明かされる彼らの過去は、ロリコンの身勝手さとしても解釈可能であり、つまり自己言及としてそのような態度を啓発しているのだ。これにより、制作者の少女愛に対する複雑な心情を視聴者にも体験させる図式が生まれることになる。


 ……などと、能書きを垂れてきたが、本作に惹かれた一番の理由はもっと純粋に、等身大の少女たちが悩みもがく姿にどこまでも共感出来たからだ(と信じる)。彼女らは、友達との関係に、親との問題に、性への関心に、自らのアイデンティティーについて、悩む。それを共有したりして、乗り越えようとする。遍く被さるのは、死者という存在に対しての向き合い方だ。死者は何も語らない。何もわからない。だからこそ答えのない堂々巡りになる。そしてぼくも、いつまで経ってもそういう大人へと、社会へと、踏み出す時に考えなければならないのかも知れないことについて、とてもとてもとても怖いんだ。だから、最終話でアイが口にした「信じるんだ!」という啖呵を聞いた時に、いい年した成人男性の体で心は子供のまま、泣いていた。愚直でもいい、闇雲でもいい、わからないからと言って見ないふりをするのではなく、「信じる」ということ。それが人を愛する一歩だということ。誰かを助けることは自分を助けるということ。そうやって戦っているうちは負けざる戦士なのだ。たぶん、今もどこかの知らぬところで少女たちは戦っているに違いない。特別編、楽しみにしてます。