ワイルドサイドへの執着

童子の時は語ることも童子のごとく、思ふことも童子の如く、論ずることも童子の如くなりしが、人と成りては童子のことを棄てたり

『ゴジラvsコング』――いつまでも怪獣映画を観ているお前へ

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 獣映画において、特撮を使用していないパート、ミニチュアや合成やCGではない、つまり怪獣やメカといった一目でワクワクさせてくれる要素を取っ払った生身の人間が出張るシーンのことを俗に「人間ドラマ」と言う。この定義は制作、現場レベルなら便宜上機能する分別だが、観客がわざわざ「特撮と人間は別」と騒ぎ立てるのもおかしな話ではある。

何故ならば映画(TVドラマでも良い)は、特撮だろうが人間だろうが同一の視点で語られるべき、一つの作品として収まっているのだから分けて考える方がおかしいのであって、カットの連なりの中では全く等価値なのだから。いちいち画面に映る内容如何で分けるのはおかしい。それは技術的に質感の統合がとれていなくて着ぐるみにしか見えないなどといった視覚的な理由からではなく、結局は怪獣映画なんだから人間なんぞ見とうない、一秒でもいいから怪獣だけを映せという欲望の反映に他ならんということだ。それは正論であって正論ではない。例え怪獣映画だとしても人間が存在しないと物語として成り立たないのかも知れないし、対比物として人間がいるからこそ怪獣の巨大感が映えてくるのかも知れない。様々な意見はある。だがしかし、それらの都合を聞き入れた上でも「怪獣だけ見せろ」が怪獣の名を冠したジャンルの逃れ難い性であることは間違いが無い。そういう矛盾を抱えた成り立ちから否応にも「人間ドラマ」と括弧書きして接さざるを得ないのだが、そうなるとどうでもよろしいと切り捨てる手合いも出て来る。というか観客としてメインターゲットであろう子供達こそが最もそのような手合いとして有力となる。ドッカンドッカンやってるのが見ていて飽きないし楽しい、よくわかんねー人らがせせこましく右往左往してるところなんて見たくねーんだよなと考えるのがむしろ自然だ。そういうキミには特撮パートだけを編集したビデオをプレゼントしよう、とか言っていると実際にそういう商品が出ている訳で、ならばそれでいいやとなるか、ならないのか。そういう子供がいつまで経っても卒業出来ずに足しげく新作を観に行って十年一日の人間ドラマ不要を唱えるようになるかは勝手な思い込みだからいいとしても、実際人間ドラマ「が」「は」と語られるのが怪獣映画の宿命である。


 ゴジラシリーズにおいて近年精力的に展開されているのが、海外資本の力を得た「モンスターバース」と呼ばれる一連の作品群だ。一作目の『GODZILLA ゴジラ』はあくまでも我々が暮らす現実の延長線上に怪獣が出現するようなリアリティを意図した作品であった。しかし同時にチャンピオンまつりを彷彿とさせるような痛快娯楽児童向け的な要素も含む歪なバランスがそこかしこに垣間見えてもいる。人間ドラマは当然のように添え物に過ぎず、怪獣を第一に考えていると思しき裁量は今後を考えると実はそれほど前面には出ていない。二作目に当たる『キングコング: 髑髏島の巨神』は、新進の監督らしいあらゆるカルチャーからの引用でデコレーションしつつ、残酷描写もありの陽性怪獣映画に仕上がっていた。一見前作から続いて「怪獣第一主義」一辺倒に突き進んだようにも思われるが、偉いのは時系列を過去に戻すことで、ベトナム戦争の影響を残した兵士達、ひいては太平洋戦争の残留兵らを登場人物として設定し、独自の人間ドラマを形成した点にある。これによって見応えのある怪獣と拮抗した人間のドラマとして成功させていた。その実、特撮と人間ドラマのバランスに考慮された、シリーズでは一番ウェルメイドな作品だったかも知れない。問題となるのは三作目『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』だ。これは怪獣第一主義を突き詰めたような、監督の異常な変態性から成る独自の怪獣思想が開けっ広げに展開されるカルト映画となっていた。この映画は、怪獣こそ神話的な荘厳さを感じさせる画でフェティッシュたっぷりに演出されるが、配置される人間ドラマはそれに対応するには軽過ぎ、全く比重が取れていない完全にバランスを逸脱した様相を呈している。人間達はどいつもこいつも感情移入不可能なリアリティを感じさせない造形になってしまっていた。今作においてモンスターバースは、あわよくば期待される人間ドラマを度外視した怪獣だけを観るシリーズとしての気分を確立してしまった感がある。よって四作目、『ゴジラvsコング』もやはりゴジラとコングの闘いの行方こそが全てであって人間は重箱の隅以下の扱いで上等だと予想されるが、筆者には歴代でも目を見張るような人間のドラマとして完成されていたように見受けられたのである。それでも世間的な風潮は肯定派でさえも人間ドラマ「が」「は」と無視しきっている。その軽視具合に腹が立って書いている訳だが、偶然にも本作の人間ドラマはそのような無視され軽視されたはぐれ者達――と怪獣によって構成されている。


 本作のヒロインであるジアは聴覚に障害を抱えている。だからと言って鬱屈を溜め込んだりするでもなく、健気な少女として立ち振る舞っているが、彼女の友達は人間ではない――怪獣、コングである。コングは生まれ育った土地である髑髏島を追われ、監視されてジアと共に暮らしている言わばはぐれ者だ。一人と一匹の共通点は世界や社会から何らかの形で切り離されてしまったはぐれ者としてのパーソナリティであり、仲良くなるのはそれによった連帯であると分かる。コングに関わる主要な他の人物もはぐれ者ばかりだ。コングの故郷である地下世界へ探求するネイサンはかつて実験で兄を失い無気力で「臆病」になっている男だし、世界の真実として怪獣を追うバーニーは妻を失ったことから陰謀論に走って傍迷惑な持論を振りかざす救えなさがある。しかし本作ではそのような彼らを一方的に切り捨て断罪するような真似はしない。あくまで寄り添っていく優しさが通底しているのだ。コングとカットバックされるジアを丹念に映す。ゴジラとの海上決戦で、突如空に向けて放たれた放射熱線を見上げるジアの言葉では言い表せないような感情を捉えたカットを見てほしい。カメラは確実にその瞬間を映している。クライマックスにおいてコングはゴジラの猛攻に倒れる。彼を復活させる手助けをするのがネイサン、ジア、バーニーである。ネイサンはコングを電気ショックの要領で探査機HEAVを使って蘇生させる。ジアはコングに敵の所在を教える。バーニーは妻の形見であるお酒を使ってメカゴジラをショートさせてコングの窮地を救う。ここにあるのはあからさまに表立たないはぐれ者同士の連帯であり、象徴的なのはコングが目を覚ますカットが切り替わるとネイサンの主観によるカットになり、あたかもコングとネイサンが同一であるように見せている繋ぎだ。そのネイサンの肩を取るのはジアとアンドリュース博士の母娘であり、疑似家族的な絆で結ばれたことを予感させる。彼らがそのように個性から連帯して勝利を勝ち取る様は極めて感動的だ。これを饒舌に説明することなく、最小限で示して見せることによる人間ドラマの構築はかつてあまり見られなかったような、ペーソスさえ獲得してしまっている。

 
 ゴジラもコングも初代にあったのは全体から排除された色濃いはぐれ者のドラマだったはずだ。その意味で本作は忘れられがちな核となるマインドを間違いなく継承している。軽視されがちな部分ではあるが、自分は怪獣映画はそのようなものであると信じて疑わない。従来の観客をメタ的に主人公にして見せた問題作『オール怪獣大進撃』が誰に向けて作られた映画かが一目瞭然であるように。過言を承知で言うが、そのような本多猪四郎的な要素を召喚出来ている傑作だと思う。芹沢博士(notケンワタナベ)がTV中継で凝視していたような光景による破壊の願望も忘れてはいない。ゴジラは人間を踏み潰し、建物を壊す暴力の化身として存在しており、それを憧憬の眼差しで見つめるのもまたはぐれ者であるはずだ。この映画はそいつに向けて作られている。


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