ワイルドサイドへの執着

童子の時は語ることも童子のごとく、思ふことも童子の如く、論ずることも童子の如くなりしが、人と成りては童子のことを棄てたり

『アイの歌声を聴かせて』――百合を試すリトマス紙として

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※この記事は映画本編とは一切関係ありません!
 開初日に『アイの歌声を聴かせて』を観たが、期待以上に良く出来たアニメ映画だった。高校生である彼女ら彼らの青春という類型的な題材を扱いながらも、「歌」という映画にとって扱いの難しい要素を、土屋太鳳ら声優陣のフィジカルと作画で違和感を覚えさせることなく、また意味のあるテーマとしても着地させることに成功している。

自我を持ち、人間以上の心を持ったAIは角度を変えればSFホラーになりかねないが、あえてネガティブに捉えず、ポジティブな歓迎するべき存在として、既存の価値観に立ち向かう若者と共に肯定するのは溜飲が下がった。全体を通してアニメーションも質が高く、劇場作品らしい画を堪能出来る。だから良作です、迷ってるなら観てねで終わってもいいのだが、問題は百合である。前情報、予告の段階から「あっ」と思ったし、「AIと女子高生でCV土屋太鳳と福原遥はヤバいだろ」で実際予想は当たっていたのだが、「百合」の定義が個々人で異なる以上、なかなかどうして厄介な劇物でもあるのだった。


 あらすじは、我々が暮らす現在より機械=AIが生活に浸透した近未来。とある市で暮らす女子高生のサトミは、名高いエンジニアである母が開発した人間と同じ姿形をした、新型AIの存在を偶然知ることになる。いつもと同じように学校に行くと、そこには新入生としてそのAI――シオンと名乗る少女がいた。挨拶もよそに、サトミの机の前に駆け寄ったシオンは「サトミをシアワセにしてあげる!」と一方的に宣言し、突然ミュージカルさながら、クラスメイトが注視する中で歌い始めたのだった。突拍子のない行動に気まずい空気が流れる中、AIであることを一人知るサトミは何とか誤魔化そうとする。だがシオンはサトミのために見当違い気味のアピールをやめないのだった。困惑するサトミだったが、次第に周りには友達が集まるようになって――。概ねこんな感じだが、百合を期待しているとドストレートなヘテロ展開が続くことになる。何しろサトミの「シアワセ」を叶えてあげたいシオンは、次第にサトミと疎遠になっていたトウマとの仲を取り持つようになっていくのだから。集まってくる二人、訳ありなリア充ゴッちゃんと彼女であるアヤを復縁させるのもシオンだ。しょちゅうAI「三太夫」を壊して、トウマに修理を頼む柔道部のサンダーはシオンにAIと分かっても惚れてしまうし、百合としては余りにもノイズが多過ぎるように思われるだろう。百合としての問題点は、実は大きく二つに絞られるのだが、ここで本記事における(というか現在の考え)「百合」を定義しないと話にならないので記載しておく。


 百合とは、「(性自認が)女性同士の関係性(のフィクション)」である。つまりちんちんが付いても無問題。男の娘など様々なグラデーションはあるが、性自認が女性であるならば男の身体でも百合は成立する。もちろん性自認が男性ならば異なる。(性自認)女性同士の関係性が重要であるから、男が入ろうが百合には支障がない。男の排除は理想かも知れないが、絶対ではない。関係性は一対一限定ではない。関係性であるから、当人らの感情が愛であれ憎しみであれ、受け手が「見えてしまえば」百合となる。注意したいのは、あくまでもフィクション内における観念なのであって、現実には適用されない。極論何でも百合になってしまうのだから、現実に生きる性的趣向などにその眼差しを向けることは、暴力的で身勝手なものでしかない。つまり本質は窃視であり、外部(受け手)の観測に依るものである。


 本作の百合としての問題その1は、「AIが相手でも成立するのか?」。シオンは自身を明確な描写こそないが、恐らく女性だと認知しているだろうから、上記の定義に則ればクリアとなる。シンギュラリティとかはどうでもよろしい。シオンはひたすらにサトミに尽くす。その想い方ははっきりと激重だ。次第に互いに想いあい、名前を連呼する様子が百合でないはずがない。しかし、ならば人の手によって創られたシオンの激重感情は誰によって意図されたものなのか。


 問題その2は「間に挟まる男」だ。おい男の存在は関係ないんじゃないのかと言われればその通りなのだが、この間に挟まる男は単純ではない、表面上は穏当だが、その実よっぽど質の悪いものとなっている。シオンがサトミに「シアワセ」になれるよう尽くすのは、シオンの生みの親がトウマだからであることが後半で明らかになる。幼いトウマがサトミのことを想って幸せになれるようにシオンをプログラムしたというのだ。まさか生誕がヘテロNTRとは酷過ぎる。結局トウマがサトミにプレゼントした小型の機械に内蔵されたシオンは、サトミ母によって取り上げられてしまうのだが、トウマの想いによってAIながら自我を持ったシオンはネット空間に逃れることになる。以降自ら学習し、サトミを幸せにするために何年間に渡り、世に溢れるあらゆるAIを通してサトミを監視しながら、人間体を持つに至った訳である。この間に挟まる男ことトウマの何が厄介なのか、言うまでもなくシオンが抱える百合的感情を人為的に生み出した事実である。これは肉体的精神的NTRより遥かに根深い。救いなのは、シオンがトウマの命令を超えた域にまで成長したことであり、自律して百合的感情を持ったとも解釈出来ることだろう。だから無問題とする。


 百合のリトマス紙と形容するのは二つの問題を許容するか否かで、受け手の百合への態度が問われるからだ。自分は何とか許容したが、貴方はどうだか分からない。今、百合が試される……妄言。本作はむしろ安易なカップリングを否定しているのだ。証拠として「話し込む二者の間に入る三者」の画面レイアウトが頻出するのだが、組み合わせは固定化されていない。重層化する人間関係から感化して変化する素晴らしさを謳っている。これはカップリングは狭量な想像力だと説くように被害妄想を働かせると思うのだが、受容の自由はあると言い訳しつつやっぱり申し訳が無い。お下品な客でごめんなさい。