ワイルドサイドへの執着

童子の時は語ることも童子のごとく、思ふことも童子の如く、論ずることも童子の如くなりしが、人と成りては童子のことを棄てたり

ゴジラは「ガワ」だけ遵守していれば良し

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 1998年版『GODZILLA』(以下エメゴジ)を久しぶりに観たのだが、評価が対極の位置にある『シン・ゴジラ』と比較すると何かと興味深い。純粋に作品として比べると、方向性の違いがあり過ぎるとはいえどちらも万人が楽しめるエンターテイメント作であり、悪い作品ではない。

 

 制作国も異なるがどちらも同じ「怪獣映画」であり、その要素を十分満たしていると言えるだろう。では何故、片方は酷評され片方は絶賛されるのか。複雑な要因があるとは思うが、ここでは大雑把に「ゴジラそのもの」に注目してみる。エメゴジについて、皆が口を揃えて言うのが「ゴジラゴジラじゃない」。これに尽きる。まず外見からして違うイグアナだ、キャラクターも違う、熱線も吐かない、敏捷、マグロ? 無性生殖? ミサイル数発で死ぬ……。どこを見ても従来のゴジラとは違う。逆に出自と鳴き声はほぼ同じであるのに違和感を覚えるほどだ。夜のジメジメしたニューヨークの摩天楼をぬって、ヘリから猛スピードで逃げるゴジラ。モンスター映画のビジュアルとしては文句なしなのだが、これがゴジラの名を冠する怪獣だとは言いがたいものがある。何より畏怖の感情を抱かせる、荒ぶる神として見られるものではないのだ。巨大な動物(イグアナ)であり、ゴジラに感じ得る魅力のそれではない。では『シン・ゴジラ』のゴジラはどうか。第一形態~第四形態へと魚類、両生類、爬虫類の順で進化し、最終的に第五形態の人間へと至る。第四形態以前のビジュアルといい、正直これも従来のゴジラと似て非なるものではないか。今でこそ第二形態のフィギュアを指さして「これはゴジラだ」と紹介できるが、公開前なら間違いなく反発を受ける。では何故皆がこれは紛れもなくゴジラである、と認めるのか。それは「ガワ」は従来のゴジラに遵守しているからだ(第四形態)。初代を彷彿とさせる造形、キャラクター性、熱線、どんな攻撃も効かない……というこれはまさしくゴジラのそれだ。第四形態以前が従来のゴジラではないのに、第四形態の圧倒的ゴジラ度で許されたのである。エメゴジがいくら絶命のシークエンスだけゴジラのそれに準じても、ガワがゴジラではないから受け入れられないのと対照的だ。昭和のゴジラシリーズのゴジラがシェーをしようが飛ぼうがフキダシで喋ろうが受けいれられるのは、ガワがゴジラだからと言えよう。正義のヒーロー側に立っても、ガワがゴジラであるから御咎めなしである。これから推測できるのは、ガワだけゴジラならあとは周りの設定を弄っても問題が無い、だ。造形、熱線、どんな攻撃も効かないといった数点を守れば、それはゴジラ足り得てしまうのだ。以前のゴジラ映画が初代をベースに設定を固めていたのを考えると、まさに盲点と言える。今年公開されるアニメ『怪獣惑星』も基本は守って残りは弄る、という方法をとるのではないか。シンゴジの成功を考えればその可能性は十分にある。