ワイルドサイドへの執着

童子の時は語ることも童子のごとく、思ふことも童子の如く、論ずることも童子の如くなりしが、人と成りては童子のことを棄てたり

『アイネクライネナハトムジーク』――人と出会ってみよう

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 面に一人の男がいる。その男は何やら通り過ぎる人々にアンケートを実施しているようである。しかし上手くないのか中々捕まらない。街頭モニターから賑やかな音が聞こえる。フッ……と夜の街で空しくなるような、手を止める。

路上でギャラリーもいないのに歌っているミュージシャンがいる。……何故か気を惹かれる。誰しもがこのような何とも言えない空しさを感じる瞬間に接するのが人生だと思うが、それは何故なのか。得手でない仕事を押し付けられるような苦難というよりは、もっと普遍的、根源的な孤独感をこのオープニングからは感じられる。


 自分は他人が怖い。自身すらも得体が知れず信用出来ないというのに、更に訳が分からない他人と接するのは恐怖以外の何者でもない。まずどう話したらいいのか、何をすればコミュニケーションになるのか、相手を傷つけるような事を言ってしまわないか、どこまで突っ込んでいいのか突っ込まれるべきなのか、そもそも自分なんかと話して楽しいのだろうか? 何も出来ない自己嫌悪と把握できない疑念と猜疑心に苛まれる正解の見えない迷路に挑むのは怖い。つまり全くわからない。手の付けようがない、そして痛みを伴う行程に触れる前からビクビクしている。痛そうなのだ。言動と行動によって何を生じさせるか予測不能ですれ違いなんて日常茶飯事の銃弾が飛び交う戦場に見える。しかし他人と全く関わらずに生きていくなんて不可能である。その事実が更に怯えさせてくる。じゃあ極力一人で閉じこもってやっていきますよ、はやはり不健全というか何か損をしているようで、結局のところ人との関わりしかないのではないか、と本作を観て思い至ったのだ。人間恐怖症の自分が。


 本作は人と人との繋がり、あるいは見えない繋がりについての物語だが、何も肯定ばかりしている訳ではない。中年のサラリーマンは思い当たらない理由で突然妻と子供に逃げられるし、ある女性と運命的な出会いをするボクサーは何もその先に薔薇色の人生が待っているのではなく、スランプに陥り、障害を持つ少年との約束を果たせずに試合に負けたりする。やはり、痛みは避けられないのだ。そこを逃げずに描いている。だから物語に嘘がない。その上で人と人とが出会う事の意味を問う。便宜上の主人公である佐藤の親友、一真が熱弁する「出会いよりも大切なのは、その人で良かったと後で思えること」。出会いを待ち望んでいた佐藤は、路上ミュージシャンの曲を何となく聞いていたら隣にいた、というまるで絵に描いた様に運命的な、ドラマチックな出会いを紗季と果たすが、10年の月日を経て残るのは倦怠感であり、きっかけがどうであろうとどこにでもいるカップルの平凡さと何ら変わりがない生活を送っている。これでは結局のところ、何もかも取り逃がしているのと変わりがないように見える。人と人との繋がりの点が線となり、出て行ってしまった紗季が乗るバスを追いかけて佐藤はひたすらに走る。やっと追いついた紗季に「あの時出会ったのが君で良かった」と言うが、これは何故なのだろう。別に何一つ問題のない付き合いをしていたのでもなければ幸せでいっぱいという様子ばかりの10年間でなかった事は画面を見ればわかる。何故なのか。灯りがある我が家に帰宅し、紗季と佐藤が交わす「おかえり」と「ただいま」。やせ我慢の、苦し紛れに自らに言い聞かせて言ったのではないのだ。ただ、そういう体裁を超えた言語化する前の感情として、実感として「そう」である事が夕食を作っていたのであろう、決して格好良くはない日常の不格好な「おかえり」と「ただいま」で納得する。人と関わる事は時に痛いかもしれないが、けれども理由が無いような繋がりによって意味のあるものだと肯定する。惹句として「奇跡」のワードが強調されている宣伝だが、連想される煌びやかなようなイメージではなく、誰にでもあり得る平凡なものだ。映画が始まって1カット目で所在がなかった佐藤が最後に映るカットでは紗季と2人、テーブルで向かい合っている。孤独ではない。本人の知らぬところで波及している若き二人も、一人ではない。