ワイルドサイドへの執着

童子の時は語ることも童子のごとく、思ふことも童子の如く、論ずることも童子の如くなりしが、人と成りては童子のことを棄てたり

『すずめの戸締まり』――全部アリバイに見える

 は、新海誠の映画を前作である『天気の子』しか観ていない。なので『すずめの戸締まり』を観に行った理由は、新海誠という作家目当てではなく、あくまでも「『天気の子』を作った監督の新作だったから」だ。

しかし、『すずめの戸締まり』は、私が『天気の子』で感じた美点をあらかた無くしてしまったように思えてしょうがなかった。以下、映画の感想というよりは個人的な感覚、自分語りが大半を占めることをご容赦願いたい。


『すずめの戸締まり』は、現実の2011年3月11日に起きた東日本大震災を扱った作品である。これまで新海誠は『君の名は。』以降、震災をモチーフとして扱ってきてはいたが『天気の子』を経て、固有名詞を出したのが『すずめ』である(らしい)。フィクションにおいて東日本大震災を扱った作品は映画を問わずこの10年、あらゆるメディアで発表されており別に珍しいものでも何でもない。ただ、最早国民的作家となった監督が大メジャーのアニメーション映画で語ってみせるのは価値があるだろう、と思う。何せ甚大な被害をもたらし、現在までなお続く難しい問題を扱うとなればこれはフィクションといえども、重苦しく辛気臭くしかめっ面になることは避けられない。そんなもんをわざわざ観たり読んだりする方がむしろ奇特、作り物の世界でくらい明るくハッピーな気分になりたいと思うのが普通だ。例えば瀬々敬久は『護られなかった者たちへ』で震災文学的に優れた成果を出したが、所謂「若者」達は阿部寛が苦悶の表情を浮かべる暗い画面を、安くない入場料金払ってまで観たいとは思わんでしょう(月額の配信サイトだとしても)。だからアニメーションの瑞々しい清涼なカラーで震災を扱って、幅広い観客層に訴求することは、何一つ間違っていないのだ。あの悲劇を忘れないようにエンタメの中で思考を促す姿勢は全くもって正しい。そして新海誠という人は、『すずめ』の内容やインタビューを読む限り、真面目で誠実だ。現実に起こった震災という、これまで手掛けてこなかった重過ぎるテーマに果敢に挑戦し、そして批評的興行的に一定の評価を既に得ている。「喪失を経験しても未来へ進むことが出来る」。何て真っ当なんだ。しかし、その誠実さが伝わってこなかったという話をしたい。この映画、台詞やイメージでこそ示唆されるが、明確な「死」が一切画面上に登場しないのだ。いや、1回しか観ていないので正確ではないかも知れないが、1人2人の死体が転がっているのではない。あの震災ではおびただしい数の人間が死に、建物が崩壊し、津波で流された凄惨が起きている。何故、それをアニメーションで描き、画面に映さないのだろうか。映画は「映る画」だ。カメラで捉えた決定的な瞬間を映すことこそが映画における「誠実」なのだ。特に死とか暴力といったものは! 観客は席に縛り付けられ、見たくもない光景を強制的に「見せつけられる」。それこそが他のメディアにはない映画固有の力だ。想像力の問題などではなく、映せるなら絶対に見せるべきなのである。そういう意味で『すずめ』は誠実さを欠いている。直接的に「死」を描かないのは逃げとしか思えない。これは同じ震災をモチーフとして扱った『シン・ゴジラ』でも感じた不満だ。年月の経過を考えての配慮なんて必要無い。『ひろしま』や初代『ゴジラ』なんて、戦争から10年足らずで真正面から人がいかに簡単に死ぬかをちゃんと映しているのだから。私が『天気の子』の何がそんなに拍手喝采だったかと言えば、もちろん「少女のためなら東京なんてどうなろうと構わない」という極めてアナーキーなメッセージ性による。こんなことを超特大ヒットを飛ばした次作でぶち上げるなんて、新海誠は過去作を一切観ていないが信頼に足る監督だと思ったものだ。他人の不幸なんて知ったこっちゃねぇや自分の幸せ最優先、これは実生活の対人において絶対に口に出せない。もし出したら白眼視され問答無用で社会不適合の烙印を押される。そんな世迷い事を大声で叫んでしまえるのがフィクションなんだ。


 今作に対して、自身の震災体験を記さないのは不公平だと思うので身バレも恐れず書く。あの時私は小学6年生だった。中学進学が目と鼻の先まで迫ってきていたのにクソバカだったので実感は出来ず、卒業式の予行練習にかったりいと思いながら参加していた。そうしていると、突然地面が揺れ始めた。数日前にも余震はあったが、それ以上に大きい。皆体育館の外まで避難して、数分は続いたであろう振動を地面に伏せながら耐えた。その間、感じていたことをはっきりと公平を期して正直に記すと、ワクワクした。退屈な日常が予想もしないカタストロフで面白くなるんじゃないかとワクワクした。窓ガラスが割れ、周りには恐怖で涙を流しているクラスメイトもいた。でも怖いと思わなかった。阿呆だった故、地に足の着いた不安よりも遊園地でジェットコースターに乗った時のような、非日常への期待が勝っていた。やがて揺れは収まって大人達の態度からもただ事ではないことが分かり、可能な生徒は帰宅するように言われたのだが、学校が早く終わったらいつだって嬉しいものだ。迎えに来てくれた母の車のステレオからは、ラジオのアナウンサーが緊迫の余り、しどろもどろで慌てている声音の速報が流れてきている。量販店の棚が全部倒れて商品が下敷きになっている。住み慣れた街が、世界が騒然としている。家に帰ると家具がぐっちゃんぐっちゃんに荒れていた。安くないテレビが壊れていなくて安心した。夜になって停電で電気が点かない水が出ない。真っ暗で蝋燭の灯りを頼りにして、唯一の情報源であるラジオに家族揃って暖を取りながら耳をすませていると、原発が爆発したらしい。原発って何だ。知らねぇ。社会の授業で習ったっけな。でもすげぇ事態なのは間違いないんだろうなー……。いつまで続くんだろう、風呂入れないのは困る……などと、これが私が2011年3月11日に感じた嘘偽りない思いだ。家族を亡くした方の眼の前で喋ったら殴られるのでやめておくが、でも自分のブログなので書く。この日常がグラつく時のワクワクというのは、近くで起きた事件をわざわざ覗きに行く野次馬の感覚に近い。自分とあまり関係の無い不幸を前にして身を乗り出す感覚。これはカッコ付けて言えば「負の祝祭」とでも形容出来る感覚だ。蜜の味、という訳でもないが、いつだって私は平凡極まる日常の崩壊を自分に被害の出ない範疇で心待ちにしている。これはコロナだってウクライナだって一緒だ。10年経とうが一切成長しておらず、そんな人間が外面は平常なフリをして溶け込んでいるのが社会の奥深さであり懐の広いところであると言わざるを得ない。でも『天気の子』は、馬鹿で幼稚な欲望を肯定してくれた気がしたんだよな。成長なんてしなくてもいい、それで大丈夫なんだと言い切っている気がした。その主張はとても頼もしかった。翻って『すずめ』は、震災を扱った重さに耐えきれず、公的なありふれた美辞麗句を機械的に述べているように思える。そんな当たり前の教科書に載っているような、誰にでも分かる綺麗事は聞きたくないんだ。もっと挑発的でアナーキーでブッ飛んでないと駄目なんだ。犯罪上等で憧れのあの子を救うために線路を走らないといけないんだ。映画ならポリ公だって殺せるって若松孝二も言ってたよ。


 要は監督の誠実であろうとする姿勢が作品に結実していない。そう感じさせる要因は他にもある。それは主人公である岩戸鈴芽(さん)に対する視線である。まず驚嘆したのは、冒頭ですずめさんが草太と出会ってから廃墟に向かう時のカット、立ち入り禁止の低い看板を飛び越えようと、ほんの少し無理をしてやや足がもつれる。こんな些細な動作をアニメーションにするのは、変態にしか出来ないに決まってるのだ。凡百の深夜アニメの場合、すずめさんが坂道をスカートなびかせ自転車で駆け降りるシーンにおいてお下品なパンチラをカマすだろう。しかし、新海誠はそんな程度の低いことはしない。少女の足がもつれる動きを発見し注力してみせる。そこがパンチラなどより余程、フェティッシュを刺激すると熟知しているからだ。流石としか言いようが無い。俺でなきゃ見逃しちゃうね。しかし、恐怖すべきはこの時点で映画はまだ始まって10分も経っていないのだ。そこから先も当然のように、鈴芽さんの一挙手一投足が寒気すら覚える程のフェチ精度で描き出されていく。羅列するとキリが無いのでやめるが、もうこれは俺でなきゃ見逃しちゃうようなレベルではないのだ。誰にでも分かるレベルで新海誠宮崎駿の座を継ぐに相応しい、モノホンの変態アニメ監督なのである。これを前にすると、いかに取り繕って「震災を悼む」なんて一席ぶっても全部非実在美少女を礼賛するためのアリバイに見える。だってさぁ、人間椅子と化した草太をあろうことか二度ほど鈴芽さんは足蹴にするのだが、女子高生の足裏を感じて草太は「あっ」だの「うっ」だの苦悶の声を上げちゃうのだ。然るにこれは新海誠が「女子高生に踏まれてぇマジで」という恍惚の呻きに他ならないのであって、これこそ監督が真に表現したい生の「欲望」としか私には思えないのである。立派なことを言うならズボンのチャックを閉めてからにしていただきたい。


 そんな邪推はお前の頭がピンク色だからだボケと一蹴されそうだが、しかし鈴芽さんの完全無欠の美少女っぷりに対して、震災はそんなに綺麗なものではなかったはずだ。不細工が一人も登場しない殺菌され漂白された「セカイ」で何を描こうが、被災した方々の実感はもっと遥か遠くのミもフタもない地平にあって、距離が遠すぎるように思えてならない。じゃあどうしろってんだよと問われてもどうすればいいのか知りません。ただ、こんなろくでもない毀誉褒貶を綴るような奴が良い観客でないことだけが確かで、先着ウン万人に配られた「新海誠本」の記載に慄然とさせられる。

どれだけ思いや考えを尽くしても、観客はこちらの事情には冷徹で無関心です。
新海誠本」P14


 3年を費やし莫大な労力と予算を使って作られた結晶に対して、ハナクソほじりながら適当言ってるこちらのことなど監督は全部お見通しなのだ。どうせヒットするのが分かってるのにこんなもん配る必要無いだろそんなに定着させたいのかよ他の映画に枠返せよ……などと思っているような人間はこの「新海誠本」を受け取る価値すらない。言いたいことが全くとっ散らかっているが、自分のフィクションへの向き合い方についてちょっと一考したかっただけ。先生、次作はもっと欲望に正直に、何卒、よろしくお願いします。


 公開当時に書いた『天気の子』と『シン・ゴジラ』のエントリ。まるで成長していない……。

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