ワイルドサイドへの執着

童子の時は語ることも童子のごとく、思ふことも童子の如く、論ずることも童子の如くなりしが、人と成りては童子のことを棄てたり

『楽園』――業と鼓動

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 は人をどう判断するのだろうか? 実際に生身と生身が出会うより前に例えば顔写真がある。「人を見た目で判断するな」とはよく言ったものだが、顔の造形、表情でその人間の知りようもない内面を勝手に推測して捏造してしまうのが常ではないか。

そもそも人間の内面など簡単にわかりようもないので、限定された情報で判別するのがむしろ通常であり、その曖昧さで人間関係、ひいては社会は成り立っているのではないか。顔だけではない。ファッション、年齢、出身、住所、職業、学歴……ありとあらゆる断片的な情報から勝手にその人の実像を知ったつもりになってしまう。そこから生じるズレによって差別が発生する。極めて安定しない薄氷の上で構築されているのが社会なのだ。映画『楽園』は映画というメディアの特性を用いてその欺瞞を暴いて見せたのではなかったか。ディスコミュニケーションの仕組み、構造を映画を使って解明しているメカニズムがその迫真性の依拠となっている。


 登場する人物は皆それぞれ自分の信じる立場があり、正義があり、主張がある。だというのに、それのせいで関係の軋轢が生じ、軋み、空転していく。排他的且つ愚そのもののように描かれる村の人々も他所者に自分達の生活が脅かされる故であって、殆ど無根拠のように見えても切実性、それなりの理というものは存在している。村の「場所」として逃れようのない呪縛が根底にあり、まず踏みしめている大地からして正当性の担保がない状況だという事。その大地の上で暮らす人々の関係性は通常、人間関係においての前提である相互理解に欠け、拒絶しすれ違う。このような絶望的な認知の元に本作はある。


 映画は当たり前だが、画面に映るものしか見えない。当たり前過ぎて馬鹿馬鹿しいが、何故そんな事を言うのかといえば本作を特徴づけるものとして観客を巻き込んだ情報提示による印象操作があるからだ。スクリーンに映し出されるのはシネマスコープの画面だが、シネスコというのは横に長いので人間の両目では全てを見渡すのは鑑賞環境の差異があるとはいえ、映画は映画館で上映される事を第一に想定されたメディアであるから、基本的に不可能なのだ。視線誘導の術もあるが、何かが起こるであろう向きに視線を移動させて見ている間、視界の端にある部分は見落とす漏れが生じる。つまり映画というのは根本的に観客に視野狭窄性を強いるメディアなのではないか。重ねて環境も画面比も様々なものがあり、一概には言えないが。映画が開始されてまず目を引くのが豪士を演じる綾野剛の佇まいである。本作はミステリーの体であるから、端的に言って不審な挙動を過剰と言ってもいい程に主張する彼を「怪しい」と観客は感じる。このやや誇張的、あるいはステロタイプ的といってもいい人物造形による演者の芝居は「善いのか悪いのか」を判断するのに分かり易くて良さそうであるが、その一面的な「善いのか悪いのか」の判断は作中とそのまま相似を成す。観客も作中で形成される「不信の輪」とでもいうべきか、環境に疑似的に放り込まれ、思考を余儀なくされてしまうのだ。映画の被写体として最も普遍的な、演者を用いた錯視とも言うべき手法は他の構成部位にもある。現在と過去、時間と場所、此方と彼方を超えてある種グチャグチャに、断片的な編集によって更に真実性の在処について揺さぶりをかけてくる。三人の主要人物がいる時間と場所はそれぞれ異なっている、にも関わらず同一の位置にいるかのようなシーンチェンジの編集がなされている。これによってわかるのは関係がなさそうなエピソード同士が繋がってしまう病理についてだ。作品内における各々のエピソードの比重などという決まりを超えて、釣り合わないものが釣り合ってしまう、どこまでも広がって偏在している何かを捉えようとする試みに見える。善次郎(佐藤浩市)が草を刈る機械の駆動音と遠く離れた東京にいる紡(杉咲花)が通る道すがらの電車が通過する音がカットバックされ、さも繋がっているかのように。豪士の母親(黒沢あすか)から渡された小銭入れから作品内の時制は過去に飛ぶが、そこで豪士が母親に問う「何故生きて死ぬのか答えられるか」というカット、この画面で豪士の位置は右に寄っている。次のカットは現在にいる紡のカット。紡の画面内位置は左に寄っており、まるで同じ時間軸で会話しているように見えるのだ。豪士は過去で母親に対して発言しているのにである。既にこの世からいなくなった人間からの言葉をこの世に「在る」ものとして見せる、カットとカットの繋がりによって構成される映画の基本原理によって生み出される認識の錯誤、デタラメをそれが映画の姿だと言わんばかりに活用する。編集によって映画の中の世界の像が曖昧にぼかされていく。この感覚は観客に波及してスクリーンの外である我々の現実と不可分に繋がっている予感を想起させる。印象的に挿入される空撮のカメラの位置もある。限界集落である村と人々がひしめきあう東京を映す位置が同一なのだ。もはやいつだろうとどこであろうと全くシームレスに、豪士が語る「どこに行っても同じ」ようだ。何が同じなのかと言えば人間の業に他ならない。


 全く救いが無い世界の有り様だが、その中で希望となるのが名の通り紡だ。豪士を追いやった一人である、発端となった少女失踪事件で孫を誘拐された当事者である老人(柄本明)は「犠牲が必要だった」として豪士が犯人だと決めつける事で事件を解決したものとした。人物を印象で判断する人間の業の行き着く先に見えるが、紡はこれを否定し「誰が犯人なのかはどうでもいい」と言う。曖昧な世界で生きるということ。豪士が犯人なのかも知れない確信のような光景を不意に見てしまうが、紡と観客が等分となりどちらの、一見安定しているように見えるが偏見と誤解に満ちた世界を良しとするのか、それとも曖昧で何か真実かわからないが、それでも未来を向く道を選ぶのか決断を迫られる。紡は親友の広呂(村上虹郎)に迫った死の予感を受け入れ、この広呂に襲い掛かる理不尽な病は「死」のモチーフとして登場するものなのだろう、何が真実かわからない道を歩むことを、すなわちそれが未だ誰も見た事が無い「楽園」へ向かう事だと信じて、否作り手がそう信じているように映画は終わる。この結末を観てどうするかは果たして目撃した観客に委ねられる。なぁに、広呂の振る舞いはストーカーに見えるようでもあり、すなわちそれは生前の豪士の姿とダブるものがある。豪士の犯行に及ぶのかもしれない姿を「見てしまった」のは紡自身、罪悪感とでも言うべき感情を抱えたからではないか。Y字路の分かれ道でもしも救えたかも知れず、取り返しのつかないかも知れない、いつ自分が加害者の側に及ぶのかわからない。いつだって不安定で危険か、希望のようで常に二律背反の両義性がある。善次郎の愛犬であるレオがエピソード同士を知れず繋げていた事が示されるが、誰かに捨てられ業を目撃した果てに善次郎に名付けられる。生まれて名前を付けられる時に全て巡り巡って戻って来るように見えて、名前に注目すると「豪士」も「善次郎」も最後は漢字の意味による豪でもなければ善でもないものだった。結局そこから始まっているような、還元されて元に戻っていく。瀬々映画らしい自然、人間以外のものと一緒に。ファーストカットとラストカットで映し出される田園の風景によって映画が糊付けされるのは、その先に待つY字路、岐路はいつでも目の前にあるのだという事に他ならない。いつでも選択と決断を迫られ何が正しいかわからないが、どちらかを選ぶしかない。答えはこれまでの歴史において一度も証明されていないだろうが、その先に待つのが「楽園」だと信じるのが人間なんである。