ワイルドサイドへの執着

童子の時は語ることも童子のごとく、思ふことも童子の如く、論ずることも童子の如くなりしが、人と成りては童子のことを棄てたり

『AKIRA』――黙示録に立ち会うということ

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 画を観る楽しみには色々な種類がある。映画なんて「面白い」か「つまらない」のみで判断すれば良いだろうという考えもあるが、なまじ本数を重ねていくにしたがって哀しいかな、生半可に無駄な知恵が備わってしまうのが映画好きのさだめだ。

従って過去に検証された膨大な知識でもいい、ロジックでもいい――に当てはめて描かれる事象を解釈していく楽しみ方に推移していかざるを得ない部分がある。否、しかし規定された枠組みの中であれこれ当てはめて遊ぶ楽しみ方が本来の受容態度なのだろうか? 映画史の黎明期に伝わる、スクリーンに投影された列車を見て観客が本物だと錯覚してしまった、という逸話はつとに有名であるが、ここには理屈っぽい受容態度とはまるで異なるものがある。現実に、実際に我が身に降りかかる「体験」としての映画の姿だ。昨今は配信サービスの普及でスクリーンを所有する映画館そのものの存在が希薄になっているとか言われるが、未だその価値は古びていない。『AKIRA』は紙の上に描かれた絵がパラパラ漫画の要領で動く二次元の嘘っぱちアニメーションの映画であるが、しかし現在の技術でリマスター化されたそれをスクリーンで目撃してしまうと最早嘘ではない、眼前に迫る「体験」としての映画の姿を有しているのであった。しかも黙示録。


AKIRA』は凄い。この評価は時代を超えて至る所で喧伝されてきた。最早突っ込む余地など全くない明白な事実と言えるだろう。しかし、その事実に反比例するが如く具体的にどこがどう凄いのかについての評論の類をあまり見かけない。そりゃあ伝説的な作品であるから、「凄い」の一語で充分だとも言えるが、遅れて来た人間からすればもっと分かり易く伝えて欲しいと思うのが人情である。まず、作画が良いからといって必ずしも映画のクオリティを担保するものではないはずなんである。いくら超絶微細に描き込んだからといっても、映画としてその要素が効果的に機能していなければ意味がない。実写に例えるならばいくら優れた技巧を持つ役者が頑張っていても、切り取るカメラ一つのさじ加減で陳腐なものになってしまうのと似ている。単に技術のひけらかしではなく、選択された被写体に適切なフレーミングを行ったうえでカットとカットを繋ぎ、それに多様な意味合いを持たせていかなければならない。加えてアニメーションとしての動きが優れているだけでもそれは動く絵が凄い、という要素に過ぎないのであってどれだけ動こうとも映画に貢献していない以上、動く絵に過ぎないんである。アニメーションにおける動きは実写に置き換えればアクションに相当するが、ただ優れた運動神経を持つ演者が縦横無尽に動き回る様を見せるだけではプロモーションビデオに過ぎなくなる。これも同じ様に動きを適切なアングル、カット割りで演出してこそ映画としての動き=アクションになるのだ。それは演者のパフォーマンス以上の感動を観客に与えることが可能になる、映画特有のものと言える。もう一つ、予言性。ウン十年前に描かれた作品の中身が現在のアレコレを先取りしているから、つまりそれは作品の価値向上に繋がるという考え方だ。これも間違っている。脚本レベルの話だが、いくら先見性があろうと時代の隔たりを挟めばいくらでも無効化し得るものだからだ。今現在の目で先見性があるように見えても、この先いつ前時代的と見做されるかわかったものではないし第一、前時代的だろうと映画として優れているかいないかはまた別の話だ。脚本上でいくら予言を発揮したとしても映画は視覚に訴えるメディアなのであって、文字上の含蓄とは関係があるようで関係が無い。一夜漬けのなんちゃって社会学的な見地で一方的に評価を享受出来るほど、映画は甘くないのである……。


 という態度は前述した「規定された枠組みの中であれこれ当てはめて遊ぶ楽しみ方」だ。しかし「体験」としての映画は最早そのような御託を木っ端微塵にブッ飛ばす破壊力を秘めている。「体験」とは何か? 言うまでもなく実際に目の前で起こる現実に他ならない。フィクションではなくリアルとして破壊を、スペクタクルを、異能を眼前にした人間がいちいち映画がどうしたこうしたなど考えるはずがない。そこにあるのは昂揚と歓喜と、あるいは恐怖だけだ。当事者としてスクリーンの中に入ってしまったかのように錯覚する、否、入る「体験」こそがむしろ映画の最もプリミティブな姿ではなかったか。『AKIRA』の「体験」は全く取りつくしまもない、不条理とすら言っていい黙示録の様相を呈す訳だが、その凄まじさによる圧倒は神話に立ち会っているかのような感動をもたらす。「もう、始まっているからね」とは正に観客の我々に対して向けられた言葉に他ならない。目撃したら最後、ただひれ伏すしか術はない。お前もあのネオ東京にいたはずなのだ……実はIMAX版ではない通常のスクリーンで。