ワイルドサイドへの執着

童子の時は語ることも童子のごとく、思ふことも童子の如く、論ずることも童子の如くなりしが、人と成りては童子のことを棄てたり

驚異卵の優先度における、時代感覚や価値観の是非について

 ぁ、『ワンダーエッグ・プライオリティ』の話なんだが、先日何の気なしにネットサーフィンをしていたら、こんなページが目に入ってしまった。

ワンダーエッグプライオリティは、正しい物語なのか?そうでないのか? | 健康で文化的で最低な生活ブログ

 いや……Googleよ、勘弁しておくれ。こっちは何の気なしにブログ用の画像を適当に拝借しようとしただけなんだ。それだってのに無数ある画像の中から、サイトの中からこんなものを引っ張ってこないでおくれ。というのも、『ワンダーエッグ・プライオリティ』(以下、ワンエグ)についてこのような類の評が出て来るのは予想していたのだ。東某や宇野某が実践し、フォロワーも多数いる、社会学や思想的な見地から作品を評価する語り口。こういう「言葉」たちは、所謂テキスト批評に過ぎないとか言われるとしても、チープでちゃちに見えた、あるいは正当な評価を受けてこなかった不遇のフィクションに社会学といったいかにもな権威を纏わせることが出来る、とても格好が良くて便利な代物に思える。当然のように自分も憧れ真似する(出来てない)方法だ。有意義で示唆に富んだ批評が受け手作り手双方のなんちゃらとかもあるだろう。どことなく「使われている」不信感が拭えないにしても、だ。だけれども、少し思うのは、どこまでも文脈を手繰り続ける際限のない言葉遊びになってんじゃねーのか、ということだ。結局のところ、それって作品に対して冷たく、俯瞰的にしか接することが出来ないんじゃないのか。無学の自分には、正直なことはわからない。ただ単に印象からそう思うだけだ。とはいえ、自分でも信じられないくらい熱を上げた作品に対しては、『ワンエグ』に対しては、そのような「言葉」の選び方で果たして有効に、つまり感じとった熱気を伝えることが可能なのかしら。などと考えなしに考えた結果が、前記事の『ワンエグ』感想なんだけど、やっぱり上手くいっているとは思えない。だけど今の自分にはこれが限界だ。第一アウトプットの有無が作品への愛に直結する訳でもないだろうに。そうして悶々としている内に見てしまったのが上のページなもんだから、とてつもなく腹が立ったんである。Googleのバカ。そういう訳で、『ワンエグ』に対する文脈からの評、主に時代感覚的なものに対する評について、その弱さを多分の被害妄想込みで検証ごっこをしてみる。


 やはり鬼門なのは、脚本を手掛けた野島伸司の存在となる。つっても『ワンエグ』紹介となるとあらゆる場所で「あの」野島伸司が~として売っているのでしょうがないとは言える。野島伸司という脚本家はどのような物語を描くのか。どのような作家性を持つのか。どのように評価されてきたのか。どのような影響を後世に与えたのか。それらを知らないとお話にならんのだが、ここで発生する問題は俺が一作も野島伸司の作品を見てこなかった点にある。だから、又聞きの印象・予想でしかないし、被害妄想めいてくるのだが、まぁそれはいい。つまり「野島伸司は90年代に一世を風靡したが、それ以降は鳴かず飛ばずで配信ドラマにまで墜ちた終わった人。そういう時代遅れの、古臭い人間が目の肥えていないアニメファン向けにかつて鳴らして通用したセンセーショナルなドラマを持ってきて釣ろうとした。他のスタッフキャストは新進気鋭だし、加齢臭は脱臭出来ているかも知れない。だが誤魔化し切れていない。少女愛を前提とする作劇は気持ちが悪く、大人・他者を醜く阻害して描き、自己の悩み・コンプレックスの解消に回収するのはセカイ系の残滓としか思えない。台詞の選び方もセンスが悪い。それらを構成する諸要素は過去作のパクりだ。『魔法少女まどか☆マギカ』や幾原邦彦作品の模倣でしかない。何周遅れのデッドコピー、縮小再生産。あまつさえ、物語が終盤に入ると「カヲル君」を登場させたり、「ネルフ、誕生」めいた内実暴露、しかも男と男の確執に女が関わる辺りまで踏襲。同時期にとうとうエヴァは終わってみせたというのに、未だにウン十年前の流行りに、平成にしがみついたままの醜悪な愚作、恥知らず」という批判が予想出来る……のだが。


 まず、いるかどうかすらわからん相手に対して反論したいのは、過去作から要素を頂戴したからどうだというのか。自分は野島伸司のドラマを見たことがなければ、『まどマギ』や幾原作品だって見たことがないのだ。これが初体験、ファーストインプレッションだ。不勉強、と罵るのも結構。だがしかし、知らないのが罪とでも言うつもりだろうか。知らないからこその感動、まで無下にする権利でもあるのだろうか。結局、知っているから、勉強しているからといった理由を笠に着たええかっこしいなんじゃないのか。ここに上記した文脈を手繰る言葉遊び化(なんだそりゃ)の弊害があると思う。先行作品の有無が価値の有無にはならない。更に、少女愛で無垢を礼賛するから弱いという指摘も見当違いだ。何がって、どう見てもこのアニメは、その弱さに自覚的だろ!!!弱さを請け負ってまでこのアニメは少女愛を採ってるんだよ!!当たり前だろ!大人への懐疑の視線、というよりホラ年頃の女の子はこんなに色っぽくて可愛いでしょそれに比べて大人の女と来たら云々、といった繰り言だ。その気色の悪い独善的な欲望の弱さは織り込み済みに決まってんだろ!しかし、7回のラスト等を見るに一方的に大人を分かりにくいかも知れんが切り捨てていないのが大変慈悲深いところなんだよ!こういう価値観の作劇はポルノに過ぎないかも知れん!てか実際ポルノだ!だが!それ故の強度は絶対にある。そして、時代遅れの問題意識が古いから駄目。90年代的なテーマはもう通用しないらしい。でもちょっと待て。90年代的なテーマが古いって言っても、それらが抱える問題はもう完璧に無効・解決されたのか?例えば思春期の内省的な悩み、宇野某風に言えば「ひきこもり」の問題、セカイ系を支える「きみとぼく」的な欲望ってもうこの世に綺麗さっぱりなくなって雲散霧消した訳?自分は、何も90年代に限ったものでなくても半世紀前の映画を観たりして「新しい」とか「センスがいい」とか思ったりする人間だ。だから、現行で生み出される作品は常に最新の時代意識でなければならない、というのはおかしいと思う(この辺り、非常に危ういが所謂価値観のアップデートとは微妙に異なると信じる)。そもそも、自意識の問題なんてのはいつまで経っても不変のものだし、かつてのエヴァがやってみせた切実さが今は全く無用の長物です、なはずがない。もう時代遅れだとしても、皆が皆そうではない。今、新しい未知のものとしてセカイ系を知って、魅了される人間だっているのだ。そいつにとってはそれが最新なのだ。90年代はこの価値観で、00年代はこの価値観、令和の今はこの価値観を全員共有しています、仲間はずれはいません、かつての問題はもう乗り越えました。そういう風にもの凄く社会というやつを短絡に、単純化した見方にしか思えない。結局付け焼刃の似非社会学を導入しているから齟齬が起こるんじゃないの。時代に合ってるとか合ってないとか、今の時代に古いとか新しいとか、そういう答え合わせみたいな見方でフィクションに接するなら、もうフィクション見るのやめちまえ、と強く思う。


 ていうか、サイトの他の記事を見れば分かるが、これは釣りなんです。雑なんです。乗った方が、負けなんです。だから俺の負けだ。Googleのアホ。
まぁ、だからReal Soundにあったこの指摘は正しいと思う。

(略)ただ、必ずしも時代とマッチしていることだけが正解とは思いません。野島さんの場合は、むしろ時代とズレていることに存在意義があるのだと思います。そんな、時代とズレた野島作品に居場所を感じている人もいるはずなので。今は映像文化自体が世代ごとに枝分かれしており、ドラマも映画も若者向けから年輩向けまで幅広く存在し、良くも悪くも裾野が広がっています。

 

realsound.jp

 

特別編でこんなアホアホな文が成仏するのを祈る。

 

・追記、というかオチ
 上で引用したライター、ドラマ評論家の成馬零一氏だが、ちょっと調べてみるとこんな生放送がある(放送延期のために内容変更になったらしいが)。

live.nicovideo.jp

 

 U、UNO……これがニコニコ配信の公式ページに貼られているのだ。神も仏もあったもんじゃない。とほほ。