ワイルドサイドへの執着

童子の時は語ることも童子のごとく、思ふことも童子の如く、論ずることも童子の如くなりしが、人と成りては童子のことを棄てたり

年内にキメろ映画ベスト10 ~2021編~

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 年に引き続き、相変わらず災難続きだった世の中だが、暇だったので映画を観ていた。いよいよ今年はそんな余裕もなくなってくると思われる。Twitterハッシュタグから発生した映画ベスト10、今年は邦画が29本、洋画は10本。以下はFilmarksに投稿した感想を加筆・修正したもの。

 

①シン・エヴァンゲリオン劇場版
 「終わらせろ」とは散々言われたにしても、思わず「何もそこまでやらなくてもいいだろう」と阻止したくなるような怒涛の終わらせる意志に唖然とする。何を見せられているんだ感は農業から既に始動していて、こんな現実、リアルで最も煩わしい位置にある「生活」はかつてのエヴァが最も否定した風景のはずなのだ。エログロのように刺激的で反抗的なカッコよさも皆無。セックスをこれ見よがしに映したのは言ってみればヤバくてイケてる露悪的なファッション意識の理由もあったはずだ。とにかくオタクが最も直視に堪えないヤバくもなければイケてもいない光景こそが農業の村社会でババアがえっちらおっちらやっている図であり、更に言えばちゃんと大人としての自覚を持って働いて結婚して子供作りなさいよ、などという見解など輪をかけてオタクが聞きたくない戯言歴代一位なのは間違いないのだ。これを劣化ジブリと言われようが映し切る行為こそ終わらせる意志の賜物であり、物語が進んでも否定の構図が見えないことから観客は「今回は大マジ」であることを悟り始める。再三言うが、エヴァというコンテンツ、ひいては現象は結婚しろだの働けだの子供作れだのといった意見に正々堂々真摯に「ヤダ」と言い続けたからこそ価値が見出され喧々諤々されたのではないのか。少なくとも後追い一夜漬けにはそう思われる。そうは言っても新劇場版は初めから旧作の否定、語り直しを目的として作られたのは明らかでコミュニケーションの肯定は『序』から十分に予想出来たことだ。農作業する爺婆も既に伏線があった。セックスの代わりに登場した営為である食事は『破』のベタベタラブコメの中にしっかりあったはずだ。だからこの結末は予想出来たし、というかエヴァを終わらせるにはある程度こうするしかない、具体的には親子喧嘩等々は誰もが思っていたことでもあり、しかしそう簡単にやれない現実も『Q』で再確認され再び信用を失ったところに投下されたのが『シン・ゴジラ』であったのだ。それを通過した結果、とうとうやった、やってしまった感慨こそが結局最も大きいのだろうと思う。本当にやったのだ。やったのである。

 

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②アジアの天使
 過去作の傾向から、冒頭で主人公が発する「相互理解」をてっきり冷笑するのかと思いきや、愚直なまでに「悪人が一人も登場しない」人間賛歌になっていて、その都合の良さを歓迎出来る。映画全体がどこかほっこりとしたユルい雰囲気に包まれているのだが、弛緩しているのではなく、計算高さの上にしっかりと建っているのが良い。男共のガキっぽさも何もかも堂々と肯定した上でハートフルコメディに浸らせてくれる作品ってそんなにない。だって綺麗事の方がいいに決まってるんだから……やっぱりこの監督の人生観自体が合っていると感じる。オダギリジョーの兄が出色で、ほとんどこの人にテーマを全部語らせているのだが、存在感とキャラクターで許せる位置にまで持って行っている。途中参加らしいけどこの人がいないとそもそも話が成り立っていない。兄弟(姉妹)の距離が近いのも好み。二人が出会うショッピングセンターの傾斜から視線は始まって、居酒屋での平行、上下、視線のポジションが関係性の推移を現しているのがロマンス然としている。サングラスを外す動作の何でもないからこその色気にやられた。いきなりキックをかまして仮面であるサングラスを捨てるくだりがヒロインアクション的で萌える。しがらみだらけの現実の先になにがしかの奇跡があるはず、がフィクションの本領だと思う。


③劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト
 TVシリーズのみ、『ロンド・ロンド・ロンド』未見。今日において「百合」というのはとっくの昔に商業的な儲け話として見做されていると思われ、オタク界隈のあちらこちらで百合的なものはいくらでも観測可能な訳であり、物語内における尊さとは反比例するようになかなかどうして現実的なしがらみが存在しているのが現状であると思う。本作のTVシリーズで行われたのは、そのような百合を窃視し搾取するような、オタクの卑近な目線をあえて作中にキリンとして介在させ、更に「舞台」を使うことによってループ的な終わりの無い物語、尊い関係性の永続を堂々と肯定してみせる、グロテスクとも形容できる試みだった。そこにはある種の葛藤は存在しない。別れることもない。成長は先送りにされ、微温的な楽園が存続し続ける格好の箱庭であり続ける。当然のように、今回の劇場版で乗り越えるべき目標は「そこ」以外にないのであって、一回終わりを告げても商業的な要請で続きを期待され続ける彼女達は宿題として残された重い感情を改めて回収していく。異物であったバナナはあるべき位置に戻り、キリンは焼死し、塔は崩れ、線路は朽ちていく。『AKIRA』や『マッドマックス』といったフィクションの記憶を無節操に反芻させて辿り着いた先は、レールのない未開の荒野しかない。空っぽになろうとも、ピークを過ぎようとも、人生は続くよどこまでも。よって彼女達は我々観客の手を離れ、遠くへ行ってしまう。無名の誰かとなり振り返らずに去っていく。万感のさようなら。オタクなんぞに構う暇なしの人生を生きていく。やがて実写の映像になり宇多田ヒカルの歌が……は『シンエヴァ』だった。随所に現れるCGの無機物感、テキストを直截に画面に出す思い切りの良さは、所詮再生産に自覚的な何よりの証で、その居座り方が痛快で嫌いになれない。弱くて何が悪い、というような。以上のしょうもない読みを行わせてくれるのに感謝しつつ、一番の見どころはやっぱり激重感情バトルに尽きるな、感情を浴びろ、台詞にやられろ、近い、近い、近すぎる、本当にハラハラする。


ゴジラvsコング
 断固支持! 過言を承知で言うと、モンスターバース前三作と比較して一番映画として「まとも」なんじゃないかと思う。怪獣映画に映画としての出来不出来などナンセンスだが、単純に娯楽超大作として良く出来ている。ギャレゴジとドハゴジにおいて、シリーズで定番にも関わらず捨て去ったゴジラ映画の要素とは何か? それは都市破壊に他ならない。怪獣は! 建物を! 人を! 壊して殺すんだよ! という怪獣映画の本質的な不謹慎性をチャンピオンまつり化や神格化といった理論武装で微妙に、しかし確実に回避してきていた。だが本作は違う。ゴジラに看過しがたい宿敵現る設定を施して、出現早々突如日常に現れ、街を蹂躙する。戦艦を一刀両断する。一つ言い訳を置いたとしても、7年前に観たかったものはこういう衒いのない光景だったはずだ(あとは米軍とのガチンコがある)。発光して白目のように見えるGMKオマージュから分かるように、今回は「怒り狂うゴジラ」だ。ガチギレのディストラクションだ。そこに核が付き纏う不可避の背景は存在しない。それでもいい。だってロクな結果を出せてないじゃん! ならやらないし触れないのが最善なのだ。最初からこうすれば良かった。コングも同じように一般人目線では殺戮の限りを尽くす。戦意剥き出しの二匹の足元を顧みない無法地帯なファイトが最高。更に「あの」第三者も加わると収拾が付かない。しかしコングは終始人間の事情に振り回される哀れな異邦獣なのだ。結果的にゴジラとの殺し合いに担ぎ出されるから応援したくなる。どっちも頑張れ。人間ドラマにおいても、アホアホなリアリティを継続しているように見えて、映画として実は結構頭が良い。怪獣映画における、主張し過ぎてもいけないが下がり過ぎてもいけない、どうでも良くてもいけない綱渡りのような人間パートのバランスを相当の精度で達成している。何より多弁にならずに語って見せるのが良い。親子とコングと交流することによって、味わった挫折から再起し人間性を取り戻すネイサンの見せ方が全く過剰になっていないのが珍しいくらいに抑制されていて自然に泣かせる。聴覚に障害を持った少女、陰謀論に傾倒するオッサン、冴えない太っちょオタクらを否定せずに物語の結末まで持っていくのは優しさだ。ゴジラ映画や怪獣映画が持っているマインドというのはこういうものだった。だから例えいつもの傍観者ムーブをかましても問題は無いんです。結果的に夏公開になったのがむしろ合う爽快感のある大怪獣映画。カラッとしていて程々のスケール感、いいじゃない。あと小栗旬は絶対に必要。一人で面白さの一割はかっさらうある意味面目躍如。

 

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⑤すばらしき世界
 「現実」をフィクションで描こうとすれば概ね「何とかなるでしょう」型と「何ともなりまへんでした」型に大別出来るように思うが、この監督は「何とかなる」を不誠実と見做して、いややっぱ駄目だろうと、どうしようもなさをあえて描く誠実に準じたのだろう。ロジカルに考えた結果がこれ、と思われるのが絶望。人間良い時もあれば悪い時もある、白黒付けられない振れ幅があると描き切った上で、最後に辿り着く「上がり」がとんでもないクソなのであって、恐らく観客の大半が、秒で「似てますね」とにっこり笑ってしまうのを承知込みでクソの極みであるという感じがする。何が素晴らしい世界だ、『CURE』の間宮を呼んでこい、改めてあの内容に「癒し」を冠した黒沢清は正しかったのだと確認する。監督の映画は初見だが、てっきり是枝と同タイプのドキュメントタッチな生っぽい手触りかと思いきや良い意味で遠慮なく小細工を駆使していく方だった、仁義in格ゲーのくだりなんてほとんどバラエティ的などっちらけではないか。テーマの一つである主観と客観の違いを入院する役所広司背中ロング→入室する仲野太賀で繋いで、心象風景的なショットから第三者の視点に移行させるのが巧い、その後の眼鏡姿は普通のおじさんにしか見えない。背中を洗い流した水→高架下に流れる川の繋ぎもいかにも示唆的で、やっぱり編集で見せる。『生きちゃった』と似たような役柄の仲野太賀だが、今のところこの人に「世俗に流されきって生きる凡人代表」みたいな役を演らせたら右に出る者はいない。そしてその佇まいにひたすら共感する。あそこはやっぱり殴るべきだろう、いや殴ることに一切の躊躇がないフラストレーションの解消を映画に求めているのだ、とは思う。黒沢清モードの役所広司が恋しくなる。無表情で人殺しするモード。


孤狼の血 LEVEL2
 これなら神輿として持ち上げるのもやぶさかではないかも知れない。明らかに良くなっていて、前回が警察小説としてミステリのロジックにこだわった結果、ヤクザ映画としてのダイナミズムに欠けて結局理に落ちる予想の範囲だったのに対して、今度はアクション映画のテンプレに則ってエスカレートするテンションに任せて論理も倫理も無効化する次元に行き着く破綻した危うさを何とか取り戻そうとしている。良識の上にある父性の安全圏から抜け出し、疑似家族的な関係性の幻想を破壊して辿り着く場所は良心も何もない無明の荒野だ。ラストの挿話によって普遍的な抽象性を得たことにより2021年現在の切実を映しとろうとしている。社会批評をやれ、という訳でも無いが『仁義なき戦い』を並べるなら懐古をやるのではなくそこから逃げてはならない。上からガラスを破って下に落ちて、チェイスの横並びは互角に見えても手錠を嵌められている、服装の色がヤクザは黒、警察は白と引き続いた灰色のテーマが最後に現れる。後者の方が不自由な存在であると語る。暴力においては視覚的なメイクに凝ったエグさを押し出すのはいいが、演出による驚きはないので単調だが直球勝負とは言える。広島弁によるリズム感は大分改善されていて、「真似したくなる」魅力を携えることが出来たのは大きい。これはひとえに鈴木亮平の力で、悪役として現実離れしているためにリアリティのある怖さには至っていないのがやや惜しい。村上虹郎にシャブを打たせる流れのいやらしさは良い。格好を付けすぎた目配せから少しは自由になって良くも悪くも衒いの無い、安っぽさを隠さない姿勢が功を奏したと言えるが、次をやるなら時代設定は今現在に食い込んでみてほしいと思う。真価を問われるならそこなんじゃないの、やっぱり。


KCIA 南山の部長たち
 どっちの意見を閣下が採るのか、はいいとしても三角関係で繰り広げられるバチバチが完全にBLにしか見えない。油断した隙に閣下を取られて不意にされる耳打ちの隠微さときたら、シルエットにしてるし、それを見つめる視線はどう見ても嫉妬の「ぐぬぬ」だ。全体的に表立ってはいないものの湿っぽい感情の強さが至る所に漲っている。ラストのクーデターは彼のテンションに比例して画面のテンションも上がり、ここぞのズーム、ここぞの長回しが効果を上げていて、ほとんど発作的と思われる段取りの至らなさを行ったり来たりして見せているのが良い。たぶん一番殺したかったのはアイツなんだろうし、どこまで史実かわからないけどちょっと出来過ぎている。最後に事を済ませてからの「この後俺はどうすればいいんだっけ?」と言わんばかりの虚無感溢れる表情が一番印象に残る。間を置いた車の軌跡もプラス。片方の足が分かり易く象徴してすっ転ぶ。台詞周り含めてちょっと劇画的なのが個人的に合うバランス。暴力の発動に衒いがない集団の内部抗争による瓦解、という辺りヤクザ映画とやってることはそんなに変わりがない。変わってしまった男達による青春映画的趣きも近いものがある。ていうか似非ミリタリズム者的には「中央情報部」とか「CIA」とかいったワードが出て来るだけで無条件に萌え萌えしてしまう。それらを見せる角度が絶妙。


⑧劇場版 Gのレコンギスタ III 宇宙からの遺産
 今後続編に挑む度に前作までの見返しと用語の確認はマストだと思わせるのがとりあえずの結論。そしてそれらを踏まえた上で観ると今回は驚くほど楽しむことが出来た。あえて舞台を月周辺に絞り意外にミニマルなスケールで展開させることによる群像劇、敵味方が入り乱れるワチャワチャ感が純化されて立ち上がって来る。そのぎゅうぎゅう詰めの様子はエレベーターのシーンによって一目で分かる。もちろん宇宙といえども地球とは変わらない生活がある視点も忘れてはいない。ロックパイとマッシュナーの二人組による『ZZ』的なカップリングで分かり易く陽性に転じる。行動原理が明確なので感情を追っかけられる。名言「出力、出ましたァー!」でロボットアニメ特有の「新兵器」が登場する面白さは十分に発揮され、黒富野ならばあり得る負のベクトルによって死屍累々に向かわず安心してロボット同士の鍔競り合いに興奮する。後ろめたさがない。結果としてGセルフを取り合う四つ巴に突入してからのギリギリ感によってライド的な感触にまで到達し、お約束として次に向かう位置で終わる。愛を掲げる通り複数のカップリングが登場するが、その中で危うい関係性だった姉弟が葛藤を経て健全に回復していくまでを支える幼馴染。爺さんが書いたとは思えない瑞々しさと若々しさ。キネ旬で「広いフィルムと狭いフィルム」(大意)として自分は前者しか作れないと語っていたけれど、ちゃんと個的なドラマになっていたと思う。当然!


⑨キネマの神様
 『お帰り寅さん』をホラーだと思ったのは間違いではなかった。山田洋次の映画は今作を含めて二本しか見ていない体たらくだが、老境に入った作家特有のヤバさ、危うさが炸裂していて眩暈がした。こうなるとガキには何も言い返す術がない。映画がこの世とあの世を繋ぐ霊界通信のツールとして使われる。黒沢清らのように機構を突き詰めて魔を召喚するのではなく、そのままスクリーンから飛び出てお誘いされる構図は小細工がないだけにむしろ切羽詰まっている。室内を壁一枚隔てて外側から撮るカットが目立つが、そこを出入りするゴウはレイヤーを超えてスクリーン=虚構と現実を行き来する越境者だ。その越境者の属性から導かれるのがラストにおける向こう側への旅になる。度々映し出される列車は境界が融解していることの伏線だ。橋渡しに乗るのは列車以外には考えられない。純粋な映画愛から出発しているのではなく、下心丸出しの恋愛が結び付いて分けることが不可能な心境だが、その妄執すらも肯定してみせる姿勢にはやはり恐怖を覚える。どうしても積年の『東京物語』と心中するような私小説として見てしまうのがいけないのか、変更前の脚本も気になるが、見事に愛嬌を付与した沢田研二は流石の仕事。太陽は盗まないけどある意味ピカレスクなのは一緒。


⑩007/ノー・タイム・トゥ・ダイ
 コネリー版初期四作を履修してから。ぶっちゃけ初めて劇場で例のオープニングとテーマを観て聴けただけで満足したので言う事が無い。あとは映画らしい映画、観光地巡りのスケール感と単純に量があるアクションに浸るだけ、カッコいい男と女が暴れ回っているだけで十分。思ったよりハードボイルドを推していて、円環構造もベタではあるけどベタで良い。コネリー版を顧みるに現代版007なんて出来んのかよと思っていたのは杞憂で、クレイグのおかげもあるだろうけどちゃんと血の通った人間に見える。最終作を飛び入りだから何を今更ではあるが、セクハラ殺人マシーン的性格は抑えつつも、排除しないバランスが本質的だと思う。フェリックス・ライターとの友情を超えた(ようにしか見えない)関係性には萌えた。『サンダーボール作戦』でしょっぱなから女装した刺客の首を絞めていた件から比較すると別物。アバンからオープニングに到る列車内から捉えた窓枠が横に流れる動きは、最後にボンドが島から梯子を昇って脱出する上の動きと対比される。ポジティブというよりは、ハードボイルド的な上昇。アクションで効果的なのは墓前の襲撃から古都での右往左往→橋で前後から捕まって進退窮まる、ボンドが過去と未来から挟撃される状況と合致、ドラマが映えている見せ場の作り方。今年の映画繋がりで上映時間的にも『シンエヴァ』を過ぎらせてしまったので負け。こういう「さよならモノ」は部外者が観ても勝手に感動させられる。次はよりシリアス、じゃなくてトンチキな娯楽巨編が観たい。

 

 興行収入1位をそのまんま1位にする辺り、やっぱりミーハーなんだろうと確認させられるが、だって映画に「変な光景」を期待するならば、あの第三村が映った瞬間に匹敵するものってなかなか無い。『エヴァ』『レヴュスタ』『007』にもう一本『マトリックス レザレクションズ』は、外部にある「時間」が映画を強固にしている点が共通。こういうものは野次馬根性で飛び込んでも感動させられてしまう。『GレコIII』と『キネマ』はお爺ちゃんの怖さを見せつけられた。他には社会派ではなく現代風にアレンジされた良質プログラムピクチャー『ヤクザと家族』、ヘビーな人間ドラマとしてはもちろん、轢死を使った暴力描写もエグかった『空白』、誰が何と言おうと百合『アイの歌声を聴かせて』、百合を補強しながら、原作のアレンジに監督の愛を感じて好ましかった『ひらいて』、アクションシーンとしては今年イチ興奮させられた『ザ・ファブル 殺さない殺し屋』、説教臭くなるところをちょっと日本映画離れした軽やかさで語る『梅切らぬバカ』などなど色々あるけど適当にやめる。実は映画よりTVアニメ『ワンダーエッグ・プライオリティ』が一番というのは内緒にして、この辺で了。

 

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